「館山の洲崎神社を見に行く」後編 街角裏散歩

疲れていて目覚ましをセットするのをすっかり忘れていたが、丁度いい具合の時間に目をさますことが出来た。窓から外を見ると、いい具合に空は白み始めている。昨日の残り物であるマズイ稲荷を喰らって、とっととチェックアウトだ。

ロビーに降りて行くとオーナー夫人が眠たげな顔をして居たのでチェックアウトの処理をしてもらう。といっても金は前払い制でチェックイン時に払っているので、カギ渡して領収書もらうだけだ。自転車を外へと運びつつ少し話すと(ありがたいことにドアを押さえてくれたり)、やはり自転車の客がタマに来るとのこと。一度は銚子までなんて客が来たとか。200km以上あるし、無理じゃね。で、(あなたは)「どちらへ?」と聞かれたので「岬の方」へと答えると、「風が強くないとイイですね」という、若干ターミネーターのラストっぽいやり取りでシメて、宿を出ることとなった。
館山の海岸(早朝)
ターミネーターのテーマを脳内で再生させながら、海沿いの道へと出るとモヤっとではあるが富士山が見えて、何だかメデタイ出発で結構である。それにしても朝っぱらから行き交う船の多いこと。
この岬へと向かう道は「内房なぎさライン」という名前なんだよ、と書いてある標識を横っちょに見つける。多分、片平なぎさとは全く関係が無いと思われるが、何故か『スチュワーデス物語』の口で「ギュギュギュギュギュッ」っと手袋を外しつつ「あなたがこの手を!」っつって風間杜夫に迫るシーンを思い出しながら自転車を漕ぎ始める。
房総フラワーライン
昨日行った赤山地下壕辺りを過ぎ、「房総フラワーライン」へと間抜けなネーミングバトンリレーと言った感じで名前が変わると、何となく岬道っぽくなってくる。曲がりくねってアップダウンが多いっていうね。自転車だとそれなりに辛い。しかし、山頭火が「まっすぐな道でさみしい」って言ったけど、こういう道もさみしいよね。早朝ってのもあるけど。
館山市香にある鳥居
やや明るくなってきた辺りで、海側に向かって立つ鳥居を見つける。当然降りて確認。今日は目につく限り(地図上のは面倒なんでパス)の岬道沿いの神社は全部見ていくつもりなんである。しかし、鳥居の方に言ってみると先にあるのは海だけで特にこれといった社のようなものがない。どういうこっちゃとグーグルマップを見てみると、逆っ側の山の方に浅間神社があるようなんだが、位置関係的にどう考えても変である。全然導線的に繋がりが無いし。
館山市香の糸杉
鳥居は北の館山湾の方を向いているし、浅間神社は富士山の方(西)を向いているはずだ。イロイロと考えながら参道(になるのか?)をフラワーラインの方に引き返してみると、道路の際に糸杉が2本立っており、その間(つまり根本)に牡蠣殻などの貝殻が積まれている。入った時は気づかなかった。

コレ、多分だけど元々は海の幸に感謝する(だけの)原始的な信仰に、後から勧進されてきた浅間神社が乗っかったっつーことなんじゃないかな。逆かもしれんけどね。この辺りの神社の祭りに多い神輿が海に行く参道って考えても、やっぱり位置関係的に変だし、別個もんだったんだろう。元々この安房国は、その豊かな海の幸から御食国に任じられるような土地だ。信仰が系統化される前はこんなような場所が多かったんだろう。取っ掛かりの神社(鳥居だけだけど)としては、非常に空気を読んでくれたような感じである。ありがたい。神社以前の信仰のカタチを見せてくれたという意味ではね。
そういや、海の幸で思い出したけど青木繁が代表作の「海の幸」を描いたのは館山だったな。岬の逆っ側(千葉県館山市富崎辺り)になるけど。そういう場所っつーことを押さえて行こう。
船越鉈切神社
漕ぎだすと、さほど間が空かずにまた鳥居が見えてくる。「船越鉈切(ナタキリ)神社」というちょっと変わった名前で、どうも社殿は山の奥にあるようだ。ちょっと雰囲気がおどろおどろしく大変よろしい。当然ここも降りて確認。近くの畑では老夫婦が何やら耕したりしているのが見える。
船越鉈切神社の文化財
横手に由来書のようなものがあるので寄って行ってみると、由来書じゃなくて文化財に関する説明板だった。平安期に奉納されたと思われる丸木舟、江戸期(元禄)に奉納された鰐口(仏具の一種)の二点があるよってのが詳しく書かれている。場所が場所だけに漁民関係ものなのね。
面白いのは後者を奉納した漁民ってのが紀州から来た漁民だっつーこと。よく開高健の本にヘミングウェイが紀州の漁師と勝負したがってた、ナンテ話を(何度も)書いていたのを思い出す。紀州が特に有名だけど、当時は関西が漁業技術の先進地(農業もそうなんだが)であり、おそらく佃島の住人よろしく(大阪からの居住)江戸の需要を満たすために移住させられたんだろう。
と、そういうもんを渡津海(ワタツミ)に寄進とあるので、神社の祭神はそっち絡みかなと調べてみると、案の定というか豊玉姫神(トヨタマヒメ)だった。トヨタマヒメは説明するまでもなく、ワタツミの娘でワタツミノ宮にやってきた山幸彦(ヤマサチヒコ)と結婚して神武天皇の父親を産んだ神様である。
うーむ。さっき青木繁のことにふれたけど、もう一つの代表作として「わたつみのいろこの宮」ってのもあるんだよね。というかやっぱり青木繁この辺りにも来てるんじゃね?美術評論本の類にはこのこと全く書かれていないけどさ。
船越鉈切神社の参道
2つ目の鳥居をくぐって奥へと進んでいくと、樹木が茂って薄暗いってのもあり、参道が思いっきり諸星大二郎の世界といった感じでコーフンする。岩が刳り貫かれてちっさい社があったりして。コーフンし過ぎて神社の由来になってる「鉈切り石」を撮るのを忘れてた。撮ったと思ってたんだけど。まぁどっかそこら辺の神社好きサイトでも見てください。
船越鉈切神社の社殿
階段を登り登り切ったトコロに社殿がある。山の斜面に立っているため写真が撮りづらい。裏は崖で引きが無いんである。落っこちそうになりながら撮る。
船越鉈切神社の磐座?
周りの岩も諸星的でイイカンジだ。一応磐座なのかな。
船越鉈切神社の洞窟
社殿の横に説明板があるので読んでみると。この神社のご神体(って言っていいのか)は社殿裏の洞窟がそうで、古くは縄文時代の住居だったとのこと。その後古墳時代には墓として使われ、やがて海神を祀る神社となったとある。なるほど。そういや前日の資料館で展示があったような気がする。
洞窟は女陰(子宮)の象徴で、再生(生誕)を意味する聖なる場所である。有名なトコロだとアマテラスの天岩戸の話がそうだが、実は今回のラスボスであるところの源頼朝も石橋山の合戦で敗れた後に、洞窟(木のウロ)に隠れたなんて伝説が残っている。後を追うカタチで家康にも三方が原で信玄にやられて洞窟に、とかね(脱糞しながら)。再生して強くなるっていう英雄譚には付き物みたいな話なわけだが、何だかここもラスボスに繋がるカタチでキチンと中ボスしているのだった。最後に社殿裏の洞窟を覗いて(ご神体なので写真は撮らず)から(なるほどそれなりに深い洞窟になっている)、賽銭をして去る。
船越鉈切神社の彼岸花
下ると彼岸花が咲いているのに気づく。薄暗いトコロから戻ったんで非常に赤が鮮やかだ。
海南刀切神社
と、自転車を起こしつつ岬の先方向を眺めると、彼岸花と同じく鮮やかに赤い色の鳥居が見える。その前には「海南刀切神社」とある。“鉈”の次は“刀”かよ、と思ったらこちらも「ナタキリ」という読みだという。うむ。こちらも確認せんとマズイだろうな。
スマホで軽く調べてみると「船越鉈切神社」とは元は同じ神社で、鉈切が上ノ宮でこちらが下宮だったという。対になってたのね。んなわけで、同じ神(トヨタマヒメ)を祀っていたらしいんだが、何故か現在は刀切大神(ナタキリノオオカミ)という聞いたことがない神様を祀っている。地元神だろうか。何だかヤヤコシイな。
海南刀切神社の社殿
ちんまりとした社殿なんだが~
海南刀切神社の彫刻
寄って見るとエライ彫刻が妙に立派だ。それもソノはず昨日と同じくの後藤義光~の弟子の人が彫ったものであるらしい。
海南刀切神社の彫刻(天岩戸)
龍や社殿周りの孝行説話の彫り物はともかく、気になったのは前面にある彫り物で、右側にはアマテラスの天岩戸の場面がある。さっき話をしたばっかりなんだけど、船越の方の洞窟のことを考えると意味深である。
海南刀切神社の彫刻(八岐の大蛇の退治)
海南刀切神社の彫刻(八岐の大蛇の退治)剥落
そして、左側は剥落してしまっているが、スサノオの八岐の大蛇の場面。アマテラスが天岩戸に隠れることになっちゃったのはスサノオが原因なわけで、なんだか変な組み合わせである。
ここからは帰ってから更に詳しく調べたんだけど、どうもこの両ナタキリ神社には内容が全く違う2つの云われがあるようで~
まずひとつは、海から船に乗ってやってきた神が、洞窟に巣食って地元民を困らせていた大蛇を退治して、その洞窟にトヨタマヒメを祀ったという話。スサノオはこっからかな。
そしてもう一つは、船でやってきた刀切大神が自分が鎮座する場所を探して、この地に使神をやったところ、洞窟を気に入ってしまい出てこないので、仕方ないので自分は海側の岩場に鎮座したという話。アマテラスはこっちからか。
どちらも話も神様は船でやって来ているのね。
海南刀切神社の磐座
社殿の裏にはバカでかい磐座がある。これを海から来た神が割ったんだそうで、確かに亀裂というか割れ目がある。洞窟と磐座ってことで陰陽になっていると言ってイイのかな。
さて、この前でこの神社のゴチャゴチャした話をまとめてみよう。この両ナタキリ神社の成り立ちのアレコレな話は何を意味しているのかというと、これは元々この地に住んでいた地元民と、外からやって来た新住民の軋轢があったことを示しているように思うのだ。
安房国の公式な成り立ち自体移民から始まっている。一宮である安房神社からして阿波国からきた忌部氏の祖神を祀った神社なのだ。で、開拓民である彼らが海の幸を朝廷に収めるようになるわけだね。しかし、当然ながら彼らが開拓にやってくる前から住民は居たはずである。恐らくアメリカ開拓民とネイティブインディアンのような不幸な出会いもあったはずだ。
アマテラスは天岩戸に“隠れた”というが、“お隠れする”は貴人の死で使われる言葉でもある。死んじゃってるのだ。正確に言うとスサノオが殺した。だから洞窟での再生が必要だったのである。で、この地で殺されてしまったのは誰か。それは旧住民だったのだろうと思う。古くは洞窟に住んでいた縄文系住民を、黒潮に乗って船でやって来た弥生系住人が殺す、というような歴史があったのに違いない。住居であった洞窟が古墳時代には墓場になっちゃってるしね。“ナタキリ”という物騒なネーミングもここから来ているのかも。
この地に適者(勝者ではない)として根を下ろした新住民は、殺してしまった旧住民の祟りを畏れると共に、自分たちの祖であるやってきた“神”を讃えなければならない。こういった辺りがこの両ナタキリ神社の由来のヤヤコシさになっているのだろう。日本の神様は大概二面性をもっているが、刀切大神のそれは分かりやす過ぎると言える。トヨタマヒメはある程度安定してからの後乗っかりだろう。山幸彦は他界の神である豊玉彦の一族と結婚したことで、兄(海幸彦)との抗争に勝利する。異類婚説話なのだ。単純に漁民の信仰といった辺りだけではなく、新住民の融和の強制といった流れを肯定するモノガタリとして受け入れられたのだろう。


要するに、この地には根付いた“住民”に対して、また新しい技術を持った新住民がやってきて圧倒するという歴史が繰り返されてきたのだ。当然それは外に対する警戒いったカタチで固定化されるはずである。上の地図で館山駅からの内房線を見てもらうと南へと真っ直ぐと行ってもイイはずなのに、何故かひん曲がって東へと向きを替えているのが分かると思う。一宮がある安房神社の方には行かないのだ。どうもコレ、噂によれば住民が反対したためこうなっちゃったんだそうである。余り大きな声では言えないが、この土地はこういった部分での排他性が強いとも言われていたりするんだ。もしかして、自分が民宿に拒否されたのもそれだったんだろうかな。
ここでパッと浮かんできたのはここ安房国(小湊)出身である日蓮のことだ。正直、自分は今まで彼の唯我独尊的排他主義と外からの警戒からくる国家主義がどっから来たのか感覚的に掴めなかったんだけど、ここに来てハッキリと理解した。出身地の風土に根ざしていたんである。
館山市内ですでに見た、風俗街への中韓の方々の進出、イオンやらの郊外型バカデカモールの進出もそういった視点から見ると、ナカナカに奥深く感じるね。今も日蓮系の新興宗教は元気だしな。いやいや、この神社は非常に面白かった。
あっ、納得しちゃって賽銭忘れた。
西岬海水浴場辺り
両ナタキリを過ぎるとフラワーラインは海の真トナリを走る感じになる。ここで、そういや今年は海入っていなかったことに気づき、少し休憩することにする。
西岬海水浴場
靴と靴下を脱いで足を漬けてみるが、想像していたほど冷たくはない。台風の後ってのもあるのかな。まだ、一応夏だしな。それにしても、まだ朝も早いので人っ子一人居ない。というか、多分昼になってもこのまんまじゃなかろうか。ホントに向かいの三浦半島とは大違いだ。あっちは秋になっても浜辺に人居るもんね。割れたガラスが転がっていて、海岸を見廻る人も居ないようだ。こういうのは、やはり風土的なものも関係あるのだろうか。
房総フラワーラインの風景
と、休憩が終わって漕ぎだしても、首都圏的な廃れ感がモロというか何というか。全然“フラワーライン”じゃねえ。といってもこういうのは好物なので別にイイんだけど。後ろの潰れた店なんかから見ると、恐らく80年代前半までは結構海水浴客とか来ていたんじゃないかな。今は自分のようなモノズキ別にすると、他はどういう人が来るんだろうか。
頼朝上陸地碑
そのまましばらく上がり下がりしつつ漕ぎ続けると山側にポッカリとした草地があり、真ん中に石碑のようなものがあるので、止まって近寄ってみると「源頼朝公上陸地」とある。えっナニソレ?
矢尻の井戸
確か公式というか、ほとんどの歴史書で頼朝が安房に上陸した地は安房郡鋸南町竜島ということになっているハズである。石碑の横手の方には井戸があり「矢尻の井戸」とあるので、どういこっちゃと調べてみると安房に逃れてきた頼朝がここに上陸して、全然水飲んでないから喉が渇いたわー、でも水ないじゃんチクショウと矢を地面に挿したトコロそこから水が滾々と出てきたっつー地元の伝説から“上陸地”っていう石碑が建てられたらしい。そんだけこの土地じゃ(英雄である)頼朝がここらに来た印象が強かった何て理解をされているだが、コレはそうじゃないわな。要するにさっきの神社と同じ。外から来た人間を肯定するモノガタリに頼朝が組み込まれたっつーことだろう。貴種流離譚ってことではスサノオとも繋がってるしね。しかし、こういったものがやたらとあるってのはよっぽど凄惨な過去があったって思っちゃうよね。それこそ諸星的な。しかし、ラスボス前に頼朝絡みのブツが見れるとは思わなかったな。
洲崎岬のトンビ
石碑やら井戸やらを見ながらナンカ笛みたいな音がうるさいなと空をみると、鳥がいっぱい。ピーヒョロロロって鳴いてるからトンビだな。こんなに大量に飛んでるのを見たのは初めてだ。彼らにとって、ここらの上昇気流が余程イイカンジの場所ってことだろう。岬だしね。どうでもいいけど、カメラのレンズ汚れとるね。青空撮ると丸わかりだ。気を付けているけど、自転車で一眼持って歩くの結構キツイのよ。
フラワーラインからの洲崎灯台
空見た次いでに進行方向を眺めると、灯台が見える。洲崎灯台だ。ラスボスとは関係ないが、岬のランドマークなんで寄るつもりでいたのである。
洲崎灯台
自転車を途中で降りて、灯台へと階段を登る。登り切ったトコロの片側に草ボーボーの空き地があり(現在は自動化しているが、灯台守の家があったようだ)、ちょっと高くなっているもう片側は芝生の草地となっている。展望台的になっているわけだ。空の青、灯台の白、芝生の緑のコントラストが美しい。
洲崎灯台からの館山方面
そこからのパノラマの景色に驚く。伊豆大島から三浦半島、ぐるっと洲崎岬までがグイーンと迫ってくるように見えるのだ。当然富士山も見える。あぁ、広角も持ってくるんだったと痛切に思う。でも、自転車だから持ってきたら捨てたくなってただろうな。朝早いんで独り占めってのも結構。
海へと伸びる岬は、その先に「常世(とこよ)」があるとされて来た。異界との結節点なのである。正にそういう景色だ。しかし、この景色を見ると頼朝がここまでわざわざ来た理由の一つがコレだったんじゃねと思えてくる。これからどうにかしないとイカン土地が全部見えるわけだからね。当時ここには灯台的なものはなかっただろうけど、物見程度のものはあって、頼朝もこの景色を見ているのかもしれない。寄って良かった。
洲崎岬の植生
そのまま灯台を降りてから自転車を押しながらゆっくりと洲崎の集落内を神社の方へ移動していく。もうすぐそこなんで急ぐ必要もないのだ。移動していてその辺の植物が思いっきり南国寄りなのでチトびっくり。黒潮の影響は知識では分かっていたが、こんなにハッキリとしているもんだとは思わなんだ。朝早いこともあり集落は非常に静かである。漁村は大概早いもんだけど、台風後ってことで出漁も無いんだろうしな。
洲崎港
港まで来ると船は全部上がっている。風はそれほどでもないけど、やっぱり海は結構荒れているのかな。防波堤で釣りをしている人が居るし。そう言えば断られた民宿はこの辺りだった。正直、ここまでの道程が楽しかったので断られて良かったと思う。さて、神社はもうすぐそこだ。
洲崎神社
フラワーラインに戻るとすぐに神社が見えてくる。ようやくラスボスの洲崎神社に到着した。いい景色だ。しかし、社殿へと向かう階段の長さはどうだ。
祭神を書いておくと天比理乃咩命 (あまのひりのめのみこと)という、安房一宮の安房神社の祭神・布刀玉命(フトダマ)の后神である。また天岩戸絡みなのだ。でもまぁ、これも後付だろう。“新住民”である忌部氏の祖神だし、元の名前に洲ノ神(すさきのかみ)ってのもあるそうで。さっき、岬を異界との結節点だと言ったけど、岬にそびえる山は神がそっちへ言ったり、戻ってきたりするのに目印にする場所である。そして、漁民達もそれを目印に漁場を決める。そこに祈りの場を作るってのは神の名以前の話だ。なお、この神社が祀られている御手洗山(みたらいやま)には戦争時に要塞があり(洲崎岬全体に施設があった)、その為の観測所があったそうだ。戦略的にも重要地だったと。
洲崎神社の「砂利」
中に入って清らかな気分になる神社ってのは久しぶりだ。どうも宮司が常駐していないんで、人の気配が無いってのも大きいようだ。こんだけの規模の神社で珍しいね。神仏混交の江戸の頃はトナリの養老寺が別当になっていたそうだ。養老寺には役行者の岩屋ってのがあるそうなんだけど(里見八犬伝に登場する)、境内で災いを起こした大蛇を退治したなんて、どこかで聞いた話が残っている。
ずんずんと中を進んでいくと、何か歩き心地が変。なんだと思って地面を見ると、砂じゃなくて砕いた貝殻が敷き詰められている。岬の神社らしい。
洲崎神社の門
宝永年間に建てられたという随身門をくぐるといよいよ社殿への階段だ。
洲崎神社の厄祓坂
エラく急なんである。近づくまで分からなんだ。これジジババ無理なんじゃね?
洲崎神社からの眺め
都内に長い石段はあるが、死を覚悟するって程のものは無い。ここは転がったら間違いなく死にそうだ。厄祓坂(やくばらいざか)っつーが、キツすぎて厄も去るっつーことかな。ホントに地元の年寄りどうしているんだろう。真ん中の手すりが出来る前は大変だっただろう。祭りじゃ、神輿のままここを下るんだそうだ。
上り切ったトコロで振り返って見てみると、参道がフラワーラインを越えて先まで伸びている。後で行ってみよう。それにしても前日からの自転車移動に加えてのこの階段登りはキツイわ。数えるつもりだったけど、途中ですっかり忘れた(傾斜が約30度で148段とのこと)。
洲崎神社の社殿
社殿は簡素で質実な感じ。正直これといった特徴は無い。松平定信が奉納したという「安房国一宮洲崎大明神」の扁額くらいか。早速賽銭をして、ぐるぐると眺めてみる。
洲崎神社の金毘羅社
摂末社として、海上交通の神である金毘羅神社、そして食物神、商売神としての稲荷神社はお約束として、オマケ神が入った長宮には、大物主(蛇神であり水神でもあり雷神でもある)、スサノオ(すでに登場)、大山津見神(富士山の神である木花之開耶姫の父神)、豊玉彦命(ワタツミのこと)、という、今までの話の総まとめといった感じの神様群が祀られている。さすがラスボスの神社だ。キチンと歴史を背負っているのである。ここの人間が何に祈ってきたか分かりやすい。
ここまで蛇がちょこちょこ出てきて海との関係がイマイチ分からんという人もいるだろうけど、大物主がそうであるように蛇は水とイコールになっている場合が多い。中国江南の龍神信仰から来たという説だね(これも古代メソポタミアの龍信仰から来ているとか)。“川”のイメージっつーかね。これに縄文の頃からある男根の象徴としての蛇のイメージが混ざって(龍神信仰にも陰陽思想入ってるんだけど)、さらにワニ(鮫のこと)信仰も加わって(トヨタマヒメはワニに化ける)、日本の漁民の蛇信仰っつーのがあると。水の象徴でもある生き物を漁民が尊ぶってのは当然の流れというか。漁民の間では(海の上では口にしてはイケナイ)タブーとなる言葉(不漁などの不幸が来るとされる)が幾つかあるが“蛇“もその中の一つである。信仰の対象でもあるが、恐れられてもいると。まぁ、それにしても漁民の信仰を煮染めたような場所でもあるんだな。そういやこの辺りの神社、やたらと龍の彫刻が多かった。ワニイコール龍でもあんだよね。
洲崎神社の本殿
本殿はやはりというか彫刻が立派。しかし、改修が多くて誰が彫ったかは分からんようだ。何故か横手の彫刻は許由巣父(きょゆうそうほ)の彫刻だったり(多分)。俗世での出世を嫌う内容の中国の話なんだけど、ここに合っているんだか、合っていないんだかよく分からん彫刻である。松平定信への嫌味だったら面白いんだけど。
洲崎神社の厄祓坂(途中から)
ということで、見るもんも見たので下ることにする。転げ落ちないように気を付けないとね。
洲崎神社の海側鳥居
そのままフラワーラインを越えて海の方へ。さらに進んで行くと鳥居があった。
洲崎神社鳥居からの富士山
近づいて行って驚いた。鳥居のど真ん中に富士山が見えるのだ(ボヤッとだけどね)。聖なる場所が見えるってのは信仰の場の重要条件であるが、ここはイロイロと層になっている場所なんだね。
そして、頼朝がココに来た理由をハッキリと理解する。頼朝は富士がすぐそこに見える伊豆で二十年以上も流人としての日々を送った人である。父の義朝は騙されて風呂場でメッタ刺しにされるという日本の歴史上の人物の中でもランキングに入りそうなくらいに悲惨な死に方をした人だが、頼朝は毎日その冥福を祈って千百回の経を唱えたという。百回半端にプラスされているのは一緒に殺された郎党の鎌田政清のためである。真面目な人なんである。恐らく自分の境遇を含め、富士にも祈ったんだろうけど、真面目な人だけに、その祈りを途切れさせたことが、石橋山の戦いの結果になったとも考えたんじゃないだろうか。さっき書いたように岬は異界との結節点である。
だからこそ、ここに来る必要があったのだろう。そして、ここから見える富士の先には平氏が居る。これくらい分かりやすい場所は無い。実際、ここで祈った後の頼朝の運は大きく変わるわけだけど。
こうして同じように頼朝と同じように富士を眺めていると、彼の陰々滅々とした(ありがちな)イメージは消えていき、ピュアではあるが生真面目過ぎて面倒、といった辺りが強くなってくる。そういや亡くなったのも橋供養に出かけての落馬なんだよな。よく言われる身内への酷薄ってのも、当時は基本的にそういう時代だし、平氏とは違うということを示す上で仕方無い部分もある。大体父親のことから(流人時代には息子も殺されている)、そういった部分が歪まないわけがないのだ。そういった意味で、ここは頼朝のある種の“弱さ”を確認できる場所なんだな。で、優しく捉えてやろうという気分になるというか。いずれにせよ、自分の中の頼朝像はだいぶ更新されたような気がする。やっぱり、こういうのは来てみないとどうにもならんね。
洲崎神社の御神石
鳥居を越えて海の方へ歩いて行くと、何やら妙なカタチの石が鎮座している。なんじゃと思っていると説明板があるので読んでみる。なんでも竜宮(異界だな)から洲崎神社に奉納されたとされる二つ石の一つだそうで、もう一つは三浦半島に飛んでいって(横須賀市の安房口神社にあるんだそう)、狛犬のように東京湾の入り口を守っているという。そりゃ面白い。
狛犬よろしく阿吽というが、ここは外海と内海を分ける結界でもあるのだ。ヤマトタケルが走水(三浦半島)から房総に渡ろうとする何つー話も残っているわけだが、この浦賀水道の入り口は、古代から交通の要所であると共に東京湾の首根っこであり、海上交通的な意味でここを押さえるってのは重要なことだったんだろう。となると、頼朝も単なる祈りでっつーわけでもなさそうだ。関東を押さえる上で「坂東八ヵ国の大福長者」であり、東京湾の支配者でもあった江戸氏が最大のネックだったわけだからね。
洲崎神社の重要度ってのは、こういったトコロもあると。まぁ前の大戦まで要塞があったわけだしね。里見家が半島に閉じ篭もりつつ活躍できたのはここを押さえていたからなんだろう。徳川家が里見家を潰したのはこの辺の事情もあるのかも。
洲崎岬から浦賀水道を見る
海を見ると東京湾に入っていくタンカーが見える。今もここは海上交通の要所である。頼朝は洲崎神社に参拝した時に、(源氏再興と平氏追討という)願いを叶えてくれれば神田(東京の神田ではなく寺社領のこと)を寄進するとの御願書を奉じている。で、その後無事願いが叶ったため、政子の安産祈願をするのと一緒に神田を寄進。だけではなく、当時は重要な港であった品川に品川神社、鎌倉からその品川の間には洲崎大社を作って、それぞれ祭神(天比理乃咩命)を勧進している。頼朝は自分の運を開いてくれたこの神社(祭神)をエラく大事にしたのである。
武家の世を開いた人間が大事にしたってことで、当然ソチラ方面からの崇敬は篤くなり、目立つトコロでは太田道灌が江戸城の中に洲崎神社の分霊を勧進している。太田道灌は品川湊の傭兵隊長をしていたこともある人で、さらに教養人でもあるんで洲崎神社の重要性と重層性ってのをよく理解していたんだろう。そう考えると頼朝よろしく関東の覇者たらんとするような“大望”もあったのかもしれんね。そういやこの人も風呂場で殺されたんだった。
徳川家のことはちょっとふれたけど、その後も洲崎を征するものは関東を征すみたいな見方が一部の武家の間であったんじゃないのかな。
洲崎岬の海岸
脳内でモロモロをまとめつつ(あんままとめて無いが)海へと降りて行くと、浜辺に白いイボイボした石が落ちているのでなんだろうと手にとって見ると、サンゴのかけらなのだった。この辺りがサンゴの北限というのは知っていたが、こんなにボロボロ落っこちてるとは。本当にここはイロイロな境界なのだ。いい具合のサンゴを一つ拾ってポケットに入れる。
館山のサンゴ
というわけで、何か今回の結果のようなものをポケットに入れたトコロでオシマイなんである。適当なラスボス設定でここまで来てしまったが、本とかじゃ分からない部分を来てみて理解するという辺りはイイ具合にクリアしたように思う。正直ここまでは期待していなかったんだけどね。途中に何だか『稗田礼二郎シリーズ』っぽくなったのも良かった。
レジャーとしても総額は一万数千円で済んで、泊まり込みとしては安かったと言えるのかな。何よりも自分楽しめたかってのが重要なわけだが、それも十二分に。この形式はぜひまたやってみたいね。といったトコロで以上。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA