中島美代子『らも-中島らもとの三十五年』・陽のあたる「自失」

20代前半の一時期、中島らもの本をやたらと読んでいたことがあった。おそらく、何かに耽溺して沈んでいくっていう内容が、当時の生活と気分的なものにガッシリとハマッたんだろうと思う。実際そんな感じだったしね。しかし、熱が冷めるのは早かった。何というか、読んでいるうちにいい子的な育ちから来ているのだろうナイーブさに嫌気が差してきちゃったんだね。中島らもが抱え込んでいたものに共感のようなものがあったからハマッたんだろうけど、自分の方が鈍感で(それゆえに)強いんじゃないかっていう妙な確信と、そのギャップから来る違和感がどうにもならなくなっちゃったのだ。
といっても、忌諱するってほどじゃなかったので、本屋で並んでいて気分的に余裕があれば買ったりするような距離感の作家という扱いで、その後もなんとなく読んだりしていた。それは、階段から落っこちて死んだっていうニュースを聞いても変わらず、ちょこちょこと耳に入ってきた破滅的な生活の結果という納得感を含め「なるほど」という感慨しかなかった。

自分の中で、そんな扱いになってしまっていた中島らものことを書こうと思ったきっかけは、偶然に神保町の古本市でサイン本を手に入れたからだ。
他の署名入り本の中に混じって置かれたその本は、元々中島らもの古書価が高くないところに、サインをもらった人間が書き込みをしてしまったようで、ほとんどワンコインな値段。安いなと何となく手にとって見返しの部分を見ると、昔自分が違和感を抱いて遠ざけた「中島らも」のイメージそのものといった感じの生真面目な筆跡のサインがそこにあったわけで…。で、なんかちょっと動揺していまい、そのまんま購入。カレー屋に移動して昼飯を食いながら裏の見返しを確認すると「’87 梅田扇町ミュージアムスクウェア」と捨て値になった原因の書き込みがある。サインもらった人が書いちゃったんだろうな。1987年というと日広エージェンシーを退社して、独立した頃だろう。自由になった高揚もあって、素で書いてしまったのかもしれない。そんな事を考えながら、その見ていると恥ずかしいような気分になる、ナンカらしくないサインを眺めていたら、ハマっていた頃の自分にケリを付ける意味でも、もう一度「中島らも」を読み返さないといけないのかもしれんなぁと、何故か思っちゃったんである。
中島らも・サイン
結構読んでない本もあるし、その辺からかなと三省堂へ行き日本人作家・な行の本棚に行くと、当然ながら死後しばらく経ってて新刊の発売はないので、中島らものハードカバー本はもう並んでいなかった。が、その中島らもが並んでいただろう場所には、その代わりと言った感じで、夫人である中島美代子の『らも―中島らもとの三十五年』が置かれていた。そうだ、この本を取っ掛かりにすればいいんじゃないか。何を読んで何を読んでいないかよく分からなくなってるけど、これは確実に読んでいないし、別角度から中島らもを見るには最適かも。と、安易に買って帰ったんだけど、夜寝る前に余り期待もせず読み始めたら止まらなくなり、一気に読んでしまった。

自分の知りたいことは、ほとんど全て書かれていたわけですよ。中島らもが自ら「勉強ロボットみたいな小学生だった。」と言うくらいのいい子だったいうことが。それも母親に応える形での。母親に”承認”されてきた人間は、長じても母親の代替である女性に”承認”を求めてしまう場合が多いように思うんだけど、この本にはそれを求めて彷徨する中島らもの主体の無いみっともない姿が結構赤裸々に書かれている。彼がドラッグ・アルコール方面へ沈んで行った始めってのは、自分を勉強ロボットにした母親への復讐という部分があったんだろうね。そして、この本には、その復讐が母親の代替となった妻へシフトして行く辺りも(しっかりとお返しもされるんだけど)キッチリと。
当時の自分が、文章の間から滲み出てきた中島らものそういうウェットなものに、潔癖気味の当時の自分が違和感持ったのも無理はないかなぁと。自分も人並みに親との相克ってのはあったけど、もうちょっと自分だけを背負って沈んでたように思うし。

こういうイジり方だと、この本がなんか暗い部分を見つめたような内容かと勘違いされそうだけど、読後感はスゴく明るくてやさしかったり。著者は中島らもとはちょっと違う形で問題を抱えていたりするんだけど、あぁ、この人だから中島らもの妻でいられたんだろうなっていう、陽性で野放図な受容力みたいなものがあり、妙な安堵感に包まれつつ読み進めることができるんだよね。
『バンド・オブ・ザ・ナイト』で書かれたスワッピングの話とかが、受けた心の傷も含めて淡々と書かれていて、フワフワしてない分こっちの方がいいんじゃないかと感銘を受けちゃったよ。『ガダラの豚』、『酒気帯び車椅子』で「家族」を求めて戦う父親をエンターテイメントという形で書いた中島らもは、最終的に彼女の元に帰ってくるんだけど、それもまぁ当然というか。最後の手紙みたいのは蛇足かなと思ったけどね。
唯一、わかぎえふに対しての感情にトゲのようなものが見えてしまうんだけど、わかぎえふが中島らも死亡時に週刊誌で放り投げたようなインタビューを受けていた理由ってのも、その流れと共にハッキリ分かって、その点でも読んで良かったと思った。

中島らもは人が酒やドラッグを求めるのは「自失」したいからだ、とよく言っていた。ドラッグ文学ってのはそういう人間の弱さを見つめることから転じての人間賛歌という部分があるんだろうと思うんだけど、この本はそういう意味で見事なドラッグ文学になっている。夫婦そろって「自失」は“弱さ”とほとんど同じ意味の“やさしさ”ゆえだったり。
若い頃は“無頼”的なマッチョなものに憧れたりするわけど、それが何で裏打ちされているかってのは見ようとはしないんだよね。自分がこういう“弱さ”を受け入れられるようになったのは成長したのか、年食ったのか。でも、今世間を賑わしているゴタゴタに慌てて、他人を口汚く攻撃することで自意識を慰めている奴らを眺めていると、どっちだろうとああなんなかったんだから、まぁいいんじゃないのって思ったりするわけです。

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