椎根和『銀座Hanako物語』 魔法にかけられた女性達

もう何年も前のことなのだが(なので細部が曖昧)、家に帰ってなんとなくテレビを付けてみると、丁度何かのドキュメンタリー番組がやっていたので、何となくそのまま見ることにした。始め、女性レポーター的な人が外国を旅する~みたいな感じだったので、まぁよくあるリゾート紹介みたいなもんかな。と、適当に見ていたら、全然違う内容だったので、そのまま引き込まれて全部シッカリと見ちゃったのである。

そのリポーターと思われた女性。実はスイーツブームの仕掛け人とも言われる有名編集者で、彼女は同じく自分が仕掛けたナタデココブームが、その原産地であるフィリピンにどういう影響を与えたのかを見に来たのだ。
当時を知っている人には説明が不要かと思うが、ナタデココブームは物凄い勢いでドーンと盛り上がったものの、同じような勢いで、あっという間にしぼんじゃっているんですな。
突然来たブームによる需要によって、フィリピンのナタデココ生産地は、当然のように沸き立つ。生産地はフィリピンでも田舎の田舎。現金収入がほとんど無い様な場所なもんで、宝船が来たと、借金をしてガンガンと設備投資。大量の需要をまかなえる(初期はブームによる需要を賄えなかった)だけの体制を整え、どーんと来い!となったところで~日本でのブームは去っちゃった、と。
で、返しようもないくらい莫大な借金を返すために男達は出稼ぎに。女達は未成年者も含めて、水商売、そして売春というコースへと。こうして、ナタデココの生産地だった地域は残された老人と子供ばかりとなり、まぁ、ブームの影響によって地域社会がほとんど崩壊しちゃったってわけです。

それをブームの仕掛け人が見に行くんですよ。エグい。しかし、それだけに面白かった。実際、今になってもその女性編集者の虚ろな目をよく覚えているし。

その、フィリピンのド田舎に多大の被害を与えたナタデココブームを煽った(つまり、上記の編集が所属していた)雑誌ってのが、首都圏在住の女性向け情報誌『Hanako』。当時、やたらと読まれた雑誌でもあり、江口寿史や吉田秋生の漫画も載っているんで、一度読んでみようかと、自分も手に取ったことがある。しかし、中でノタクリまわる消費に結びついたカタチでの個性的な女性演出(磨き)と言えば、まだキレイに聞こえる、消費と直結させた自我肥大みたいなものに、うわっ!キモチワル!と放り投げてしまった。で、遠くから眺めもせず、そのまんま。最近のは牙が抜けているんで、もう読めますがね。

しかし、昨今を女性を眺めてのアレヤコレヤ。例えば、東京都内で高級ベビーカーを押す女性達は、何故他者を全く見ていないのか等、一種の自己肥大案件をみるに、実はコレは『Hanako』的なものから来ているのではないか?との疑念があり、キチンとその辺を押えておかないとダメなんじゃないかと、何か良いテキストは無いもんかと思っていたのである。

というのが頭の片隅に合ったトコロで読んだのが、週刊文春の酒井順子氏の読書日記だ。『銀座Hanako物語』を取り上げたいたのだが、その文章がエライ感傷的だったのだ。

ユーミンのコンサートツアーに行って、泣く。最後の曲は「卒業写真」。私と同世代、すなわち中年の皆さんが、ユーミンと声を合わせて歌う様子に、再び涙。
彼女たちの後ろ姿には、「この人達も、頑張ってきたのだ」と思わされる。仕事も子育ても、大変に違いない。髪の毛は艶はすでに失われているのだけれど嗚呼、それは彼女たちが必死に生きてきた証。
しかし、彼女達は、実は「仕事と結婚」だけの人生を歩んできた人ではないのだった。彼女達はいわゆる「Hanako世代」であり、「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」
なのだから。

なんだかエライ“慰撫”しちゃってるのである。戦後、男達は高度成長期に自我肥大し、バブル崩壊によって打ちのめされた。そして、その後しばらくして『プロジェクトX』のような慰撫史観のようなものが登場した。「オレたちは、頑張って来たのだ」と。
そして、バブルは女達を自我肥大させたが~その後どうなったのか分からないまま(というか眺める気もなかったんだが)、ようやく慰撫史観のようなものが登場し始めたってことなのか?
銀座Hanako物語
こりゃ、買わにゃならんなと、すぐに本屋へ行き入手。一気に読んだんだけど(始め文字の級数がデカくて読みづらかったが)、正直面白かった。スコセッシの『カジノ』を見ているような感覚に近いというかね。しかし、これは基本、自分にとって他人事だからだろう。

この『銀座Hanako物語』、一応内容を説明しようかと思ったが、何しろ副題が「バブルを駆けた雑誌の2000日」と、そのまんまなのだ。そして帯のアオリはこうなっている。

「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」
1988年6月創刊、対象読者は首都圏在住の27歳女性だった。
世はバブル、欲ばりな女たちが、
欲ばりな女たちのためにつくった雑誌は
ブランドブームに火をつけ、
スイーツの爆発的な流行を生んだ。
創刊から5年半を、編集長がいきいきと物語る。

という感じになっており、もうお腹いっぱいな感じだ。その編集長だった著者は1942年生まれ。高度成長の旨味汁にどっぷりと漬かったプレ団塊の世代。戦後民主主義的といえば便利な、いわば思想も消費物としてみるような空気の中で自我を完成させたこの世代(前後含む)は、何故かその自己肯定論を女性達に引き継がせようとする人間が多かったが、実はHanakoもそういうものだったのである。
であるので、当然のように(逆にというか)、オタク批判、草食批判のようなものが混入している。

(晩婚化の紹介の流れで)
それは、女性の高学歴化、高収入化のせいもあるが、相手となる男性たちが、オタク化しつつあることを証明していた。愛につきものの苦難の道を選ばず、そんな面倒に体力と金を使うことは最初からあきらめて、無抵抗のマンガやアニメの美少女に、一方的に愛のようなものを捧げる若い男が増えたのだ。

これ、なんだか今のフェミ方面から聞こえてくる内容そのまんまだが、要するにオヤジが自我肥大の果てに練り上げた消費(肯定)型マッチョというバトンを、「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」という女性たちがバブルという跳躍台を使い、引き継いじゃって、今に至るっつーことなんじゃないかと。それは「個性的でなければならない」と高度成長の中で、頭ひとつ出ようとしてモガイてきたオヤジ達の“呪い”を引き継いだ、ということでもある。女性が“父親”的なものを肯定するってのは、別に古今東西って話なんだけどね。まぁ、マッチョを息子が引き継いでくれないので(というか自分に取って代わるならホリエモンよろしく、潰す)、娘にっていう。

問題は冒頭のように、その“呪い”から来る加害性をどっちも認識していない辺りである。オタク(若い男性って言ってもいいかな)の想像領域での加害性を批判しつつも、自らのそれは無謬である、みたいな信仰といってもいいようなものがあるようなんである。後の世代にも引き継がれちゃってるのも、この辺りに原因があるのかな。この点、同じくの団塊の世代の消費(肯定)型マッチョである雁屋哲氏(的なもの)ともかぶる。それは先ほどふれた酒井順子氏の文章にもそれが~

バブルというと「乗せられて、後に弾けた」というイメージが強い。が、それは女性達にとっては視野を広げ、外に出るチャンスでもあった。チャンスを生かして巣立った女性や、その後を追った女性も、多かったのではないか。

なんだか、太平洋戦争肯定論みたいである。確かに“拡大”はあったんだろうけど、それは良いものだけをもたらしたのかという。果たしてこういった旧世紀型の自己を希求して、他者が目に入らない人達に社会がどう対応するかってのは、モロモロ今後の問題となってくるだろうと思う。
というか、もう問題になってんのか。自己啓発とかに引っ掛かるのも、オヤジとHanako組辺りなんだよなぁ。後継者達も含めてね。スピリチュアル的なもんもバブル以降のHanako組が牽引していたしね。そういや漫画家がキモチワルイ出産本をやたらと出してた頃もあったけど、あれもバブル後だったか。
確かにHanakoは女性達に魔法をかけてくれた存在だったというのは、この本を読むと本当によく分かる。しかし、魔法は“呪い”と同じものなのだ。オタクが“呪い”なのかもしれないってのを語る人間は沢山居るのだけど、この辺を語る人間は居ないってのはただの不幸なのか、そうじゃないのか。
基本、傍から楽しんでる立場なんで、正直どうでもよかったりするんですが、公共の場で高級ベビーカーに足を踏まれたり、ガンガン脛にぶつかってこられたりすると、誰か“呪い”を解いてあげてもイイんじゃねと思ったりもするわけです。

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