上野 珈琲 「王城」 高級喫茶「古城」 カフェブックマーク

このカフェブックマークシリーズでは何故か終戦直後の闇市ばなしを枕に~というパターンが何故か多いんだけど、今回も上野となれば当然のように闇市ばなしからということになっちまうわけである。何しろ上野には闇市の頃から分かりやすく続いている商店街「アメヤ横丁」があるのだ。ここほど闇市ばなしをするに格好の場所はないっつーことで、その「アメヤ横丁」、通称“アメ横”の歴史をたどって行くことにしよう。

闇市が開かれるにはある程度のスペースが必要になるわけだけど、戦争中に新橋駅西口が空襲による延焼被害を防ぐために強制疎開が行われ空き地になっていたのと同様、上野も国鉄の変電所があった関係で強制疎開が行われ現在のアメ横センタービルの辺りがガランと空き地になっていたようだ。戦争は終わったものの、GDPは最貧国レベルに落ち込み全てのモノが足りない~物資の統制が行われ特に都市部が飢える中、東北線、高崎線、常磐線、京成本線の終着駅というカタチで地方と直結していて物資輸送に都合の良く、さらに空き地もしっかりとあった上野で闇市が開かれるのは当然と言えば当然の流れと言える。
終戦後のアメ横
この上野の闇市で主力商品となったのは芋飴だ。砂糖なんぞは高嶺の花という状況で、芋を煮詰めて糖化させただけの芋飴が売れに売れたらしい。刑務所受刑者なんかもよく述懐しているが、どうも人間は自由に食べられない状態になるとどうも甘味が恋しくなるらしい。実は「アメヤ横丁」の“アメ”はこの芋飴から来ていたり。そして、この最初期のアメ横を押さえたのは朝鮮人達だ。この辺はいわゆる“三国人問題”として繰り返しとなるが、要する日本国から解放された“戦勝国民”である自分達は日本の法律なんか関係ない!統制なんか無視無視っつーわけだ。何故終戦後上野に朝鮮人達が多く集まってきたかには諸説あって(戦中、下町地域の工場には朝鮮人が多く働いていた等)ハッキリしないが、ヤクザ勢力の狭間で強力に街を押さえる組が存在せず、中国系の勢力もそれほど強くなかったからといった辺りだろう(横流し物資の入手に関しては中国系の方が優位だった)。
GHQ本部前でデモる朝鮮人達
こうして三国人が闊歩するアメ横に警察はちょぼちょぼと手入れに入るものの横流しの拳銃等で武装する彼らに逆襲されたりする始末で、三国人の天下は一年ほど続くことになる。こういった状況は上野だけではなく、三国人による警察官殺害や警察署襲撃みたいな事件が日本の各地で結構起こっている。三国人サイドは自分達の商業行為を“邪魔”する警察を「新選組」と呼んでいたらしい。なお、日本の警察は戦前サーベルか短剣のみで拳銃は基本所持していなかった。よく反権力方面から「日本の警察は拳銃を持っていて威圧的だ!」なんて声があったりもするが、日本の警官が拳銃を所持するようになったのはこういう治安問題に手を焼いた進駐軍が方針(日本人の非武装化)を転換して、昭和23年に正規に支給し始めてからなのだ。終戦からその間は警官は基本木製警棒のみで混乱する治安の中で頑張ってたんである(重大犯罪の場合は一時的に拳銃が支給されたり、武装したMPが同行したりした)。というか頑張れなかったから拳銃が支給されることなったわけだけどね。
闇市の様子
そんなアメ横に楔が打ち込まれたのは昭和21年の5月。戦前から事業家として成功していた近藤広吉が区から正規の許可を得て新宿・新橋よろしくのマーケットを開いたのである。どうも、この「近藤産業マーケット」開設の背後にはアメ横を“正常化”したいという区と警察の後押しがあったようだ。日本人サイドの反撃というわけだ。当然ながら三国人サイドの抵抗は激しく、近藤広吉はそれに対抗するため、これまた当然のようにヤクザ組織(テキヤ系)との接触を持つことになる。この辺の流れは『山口組三代目』なんかのヤクザ映画を散々見ているボンクラ各位にはお馴染みだろう。戦後のヤクザは警察に変わって三国人との抗争を引き受けることで地歩を得たといっていいのだ。占領政策の申し子っつーわけだ。その後も児玉誉士夫絡みでCIAなんかの金も流れこんでるわけだしな。
闇物資を取り締まる警察
抗争状態になったアメ横はまっ昼間から銃声が響くようなアウトロー地帯と変わり、そんな状況下で区と警察の支援がありヤクザという前衛も居る近藤広吉の“正規アメ横”に三国人の“闇市アメ横”は次第に押され気味となって行く。そういった情勢の変化から昭和22年の7月に下谷神社で新宿の尾津組組長(最初のマーケット仕切り人)を立会人に手打ち式が開かれることになる。この手打ち式には当事者のヤクザ代表に朝鮮人代表だけじゃなく、上野警察署署長に台東区長も出席していたというから時代のメシャクチャっぷりがよく分かる。で、その手打ち内容は朝鮮人はアメ横から手を引き、日本人側が彼らの為に代替地を用意するというもの。この用意された代替地ってのが都内最古のコリアンタウンとして知られる東上野のキムチ横丁だったりする。当然というか公式サイトなんかには穏便にアメ横から「枝分かれ」と書かれているけどね。
上野の路上で寝る浮浪児
というカタチでアメ横はとりあえずの“正常化”を果たしたわけだけど、この抗争ってのもあくまで上部構造の勢力争いであって、末端では物資を融通し合ったりするのが普通だったらしい。まぁそれが本当の人間同士の営みってもんである。この手の話はそれぞれが自分の都合の良い話しか出さないんで、そろそろいい加減にせいって辺りなんですが。
上野アメ横入口の京成ビル
その後、朝鮮戦争勃発からアメリカ軍の物資(横流れ含む)が持ち込まれるようになり、アメ横の名は“飴”に加えて“アメリカ”とのダブルミーニングに。そこからは大体公式な流れなんで説明はいらないだろう。抗争の時代も過ぎると朝鮮人系がアメ横に復帰するように進出(上野はパチンコのメッカでもあり、メーカーは新台をテストしたりする)、さらにここ最近はニューカマーの韓国人や中国人達も加わったこの闇市直系の街は、今も休みともなれば歩きづらいほど繁盛している。しかし、この元々の闇市的複雑さに多国籍化も加わり、どうも権利関係の複雑さから新しいこと(ビルへの建て替えとか)が出来ないという部分もあるようで、さらにガード下店舗の大家であるJR東日本もそういうややこしさを嫌っていろいろと契約を厳しくして締め付けを強める方向であったりと、今後のアメ横ってのも明るい部分だけじゃないってのが実際のようだ。どうなるんでしょねって辺りで今回のマクラは以上。
上野街娼分布図(昭和27年)
というわけで一軒目なわけだけど、自分の住んでいる湯島からアメ横方面へ向かうには不忍池からポルノ映画館のオークラ劇場横の路を抜けて行くのが早い。ただ、この路の不忍池側(下町風俗資料館横)は夜になるとオカマさんが多く並ぶ場所なのでご注意なんですが。というか上野(から湯島)は江戸時代に陰間茶屋が多かった影響が続いているのか何故かそっち方面の方々が多くいて、古くは昭和23年に男娼による警視総監殴打事件なんてのも起きている。上の図は昭和27年発行の雑誌に出ていた街娼分布図なんだがバツが街娼、黒丸が男娼(三角はポン引き)。男ゾーンの場所全然変わっとりゃせん。都立上野高等学校に通っていた若かりし頃のアラーキー(荒木経惟)なんかも夜の上野公園を歩くってのが生徒の間で度胸試しとしてあったなんてことをどっかで語っていたしなぁ。もちろん普段はそういう部分は見えないんだけどね。自分もよく使っていた上野駅13番ホームのトイレが後でハッテン場だと知ってびっくりしたりと(通勤時間にハッテンはしてないだろうけど)。まぁ終戦直後には何故か戦災孤児たちが上野に集まってきて一時期は三千人ほどいたなんて話も聞くわけだけど、上野がそういう何かいろいろと受け入れてくれそうな懐の深さがある街ということなんだろう。オークラ劇場のエロポスターはパンダを見に来た子供たちの情操教育にも役立ってるし、本来街はこうあるべきである。ホントかよ。
アメ横
アメ横自体はいずれセンタービル地下の魔窟や最近やたらと増えた立ち飲み屋(昔からのも含め)なんかを紹介したいと思ってるんだがチト今回はマクラでご勘弁。肝心のお店はアメ横のガード下を過ぎ、さらに上野御徒町中央通りのさらに一本先の通りにある。マルイ裏の通りって言った方が分かりやすいかな。正式には上野丸井デパート裏通りという名称らしい。
珈琲「王城」・看板
そこにある珈琲「王城」は昭和45年(1970年)創業というから立派な老舗喫茶店と言っていいだろう。実は以前朝にちょこちょこと利用していた馴染みの店だったりする。周りが繁華街なんでリーマンずれしてなくてゆっくりできたんだよね。久しぶりに来てみたわけだが、紫色の怪しげな看板も含め何か青江三奈チックな雰囲気が漂う相変わらずのシブイ店構えである。
珈琲「王城」・外観
繁華街に昔からあるこの手の喫茶店の多くは昭和30年代半ばからの戦後第二次喫茶店ブームが起源だったりするわけだが、このブームは喫茶店はオーナーの自意識を料理なんかの手間と時間のかかる方向ではなく、内装やらの分かりやすい方向で反映させることが出来たからなんじゃないかと言われている(昭和35年のコーヒー豆の輸入自由化ってのもある)。“俺店舗”ってわけだね。当時は学生運動全盛の時代。みなが自意識を押し出そうと躍起になっていた頃だ。まぁそう考えると今のカフェブームってのも新しい自意識の有り様って辺りで見ていくのも面白いかもしれない。かもめ食堂にRPG打ち込みたい自分は面倒なんで誰かどうぞ。
珈琲「王城」・店内
店に入るとよく入っていた平日朝とは違い結構混んでいる。うまい具合に写真を撮りやすい奥の席が空いていたのでそこに滑りこみ、ちょっとムシムシして冷たいものが欲しいとクリームソーダを注文。またかよ。この店の内装は名前の「王城」よろしくの西欧風ゴージャスといった感じで、この時代の純喫茶によく見られるスタイルである。“西欧”っつっても美輪明宏的デコラティブなものであって、このキッチュ込みのゴージャスさの中で何故気分が落ち着くのだろうか、といった辺りはこのシリーズでちょっとこだわっている辺りだ。
珈琲「王城」・クリームソーダ
やってきたクリームソーダはシロップが濃く大変よろしい。ベタに真っ赤なチェリーも王城だけに王道な感じ。
珈琲「王城」・ナプキン
付いてきたナプキンに入ったロゴも非常に味があるデザインだ。コボレない程度にアイスを片付けるとちょっと一息付いたので、柔らかいゴブラン織りのソファーに背中を預けて何となく店内を眺めていると、店員さん達が客の動きを予想して接客しているのが分かり感心しまくる。流石上野のややこしい場所で長く生き残っているのは伊達じゃない。しかも、繁華街の喫茶店特有のやさぐれ感はなく、みなパリッとしていて清潔感がある。これも朝ボヤッとコーヒー飲みに来た時には気づかなかったぜ。
珈琲「王城」・コーヒー
「珈琲」と名乗っている店なので一応コーヒーの方も紹介すると(別途来訪時撮影)、まず店員さんが暖めたカップと銀メッキの砂糖&ミルク入れを持ってきて、やや置いて淹れたてのコーヒーを注いでくれるという、飲む前にちょっとした儀式のような流れがある。500円でこれがあるってのは結構大きいだろうね。そして、とんがっていないブレンドは非常に飲みやすい。
珈琲「王城」・ランプ
店内の客も見渡してみても客層が特にどこかの方向に寄るというわけでもなくまんべんなくってのも、コーヒー同様とんがっていない店の雰囲気に由来すると思われる。店の個性を押し売りすることなく、老若男女、オサレでもオタクでもどんと来いみたいな許容度の広さは上野という街にある喫茶店として正し過ぎるという他はない。
珈琲「王城」・中央の照明
上野という街を理解したい人間は、この街の空気を分かりやすい形で体現するザ・上野な珈琲「王城」に来ると良いだろう。この店のマッチに「憩の殿堂」って印刷してあるのが本当なのかは自分で確かめてもらいたい。

珈琲「王城」
住所:東京都台東区上野6-8-15 1F
電話:03-3832-2863
営業時間:8:00~22:00(ラストオーダー.21:30)

さて、王城を出て次の店に向かう途中に思いっきり東上野コリアンタウンを通ることになるので、現状にちょっと触れておこう。
昭和通りからの東上野・キムチ横丁
キムチ横丁は昭和通りから一本入っての通りなわけだけど、現在キムチ横丁の片側は大きな駐車場スペースになっており、横丁の店舗が昭和通りから丸出しの状態となっている。この駐車場スペースにはかつて寶組のタカラホテルがあったんだけど、さらに大きなホテルの建築を目指して古い建物を取壊して隣接する土地の取得を始めたものの、北朝鮮系の協同組合との交渉が長引く内にバブルが崩壊してしまい、紆余曲折の果てに現在の持ち主は寶組ではなくファンド系のリサ・パートナーズなんだそうだ(ホテルの計画は引き継がれている)。闇市的複雑さのケツ拭きを外資がするってのは諸行無常の響きがあるね。
東上野・キムチ横丁
実はガキの頃、親に焼肉を食いたいというとここに連れてこられたので、80年代前半頃のこの横丁の記憶は結構濃厚にあったりする。どうも、その頃に比べると現在のキムチ横丁は歩いていてもペロンとしていて何か薄くなったなというのが率直な印象だ。ある頃から“在日”的な内容の店よりもニューカマー達の“韓国”的な内容の店の方が強くなって、どうもわざわざ訪れる場所では無くなってしまったというか。ニューカマーの韓国料理屋は今どこにでもあるしね。この点、キムチ横丁の現状は“在日”の現状でもあるのだろうと思う。アメ横同様どうなるんでしょうねって辺りか。ホテルできたら思いっきり陰になるしなぁ。
高級喫茶「古城」・外観
二件目の高級喫茶「古城」はコリアンタウンから商人宿集まっている辺りを抜けた先にある。創業は昭和38年(1963年)というから王城よりも更に古い。東京オリンピックが開かれる一年前だから、東京がそれに合わせて大きく改造中といった時期で、第二次喫茶店ブームの丁度始まりの頃だな。看板には分かりやすく「古城」よろしくのヨーロッパの城の写真もあるんだが、ちょっと小さく上の方なのでどこの城かは分からない。なお「古城」は毎度おなじみ地下になります。
高級喫茶「古城」・階段のステンドグラス
入口に近づいていくと、地下に降りる階段の上のに西欧騎士のステンドグラスがあるのが見える。こちらの“城”はやっぱりというか、そのものズバリってわけである。その騎士ステンドグラスとそれが嵌っている贅沢な額縁を見ながら、マーブル模様の大理石に囲まれた階段を降りていくと貴族っぽい女性(ロシア系か?)ステンドグラスが真ん前に。上手い演出である。
高級喫茶「古城」・店内
という感じに店内に入るわけだが、中は結構広く全69席。奥の壁一面がステンドグラスになっていて、その前にオルガンが置かれている(この店は生演奏があるらしい)ので、なんとなく教会を思わせる造りである。そして「古城」の内装の特徴はこのようなヨーロッパ風味と共に石材の使用量だ。壁と床には色の違う石を組み合わせて模様が描かれ、席の仕切りや柱もしっかりとした石造り。初代店主が職人達に頼んでこだわって作ったそうだが、パッとしない上野の端に突然こんな店が出来たら評判になっただろう。老舗の割に古色蒼然といった雰囲気が余り無いのは石造りって辺りだからだろうか。
高級喫茶「古城」・店内のステンドグラス
お約束のふかふかチェアに腰を降ろし、注文は開き直ってクリームソーダにする。もうクリームソーダを巡るシリーズにしたろうか。と、注文が来るまで店内の細かい部分をチェックしてみると、流石に一部の石が石灰分を吐いていたりという部分はあるようだが、やっぱり石造りということで古さを感じさせないっていうトコロがあるようだ。この点は有楽町のストーンと似たような感じだ。同じくこの内装を見に来るだけにお店を訪れても良いかなという。
高級喫茶「古城」・クリームソーダ
やってきたクリームソーダはよくあるシロップ系ではなく、どっちかいうとメロン系果汁入りといった方向のもの。いまやクリームソーダ専門家といってもいい自分の中でもあまり記憶にない味のクリームソーダだ。あの特有の脳みそが溶けるような甘さがないのがアレだが、コレはコレでといった感じかな。
高級喫茶「古城」・ランプ
飲んで気分も落ち着いて来ると、店内の雰囲気に馴染んだ皮膚感覚に脳味噌が何か反応したのか記憶の中の古いデータがゆるゆると引っ張りだされて来た。そういや、ガキの頃に小金持ちの家の友人宅に遊びに行くと大概洋風の応接間があって、サイドボードに洋酒や洋風小物が並んでたりしたもんだ(日本各地の観光土産が混じってカオスになっている場合もある)。この辺りがこういう喫茶店のゴージャスな雰囲気の中で気分が落ち着くということと関係している部分もあるんじゃなかろうか。なお、別の機会にここのカレーも食べてみたが、見事に友人の家で出てくるカレーだった。コーヒーも店のにしては量多めだし(カップがデカイ)。
高級喫茶「古城」・本棚
しかもここ、マンガもしっかり置いてあるんだよね。カイジや代紋なんかは上野らしいっちゃらしいんだろうけど、江川達也と萩尾望都ってのが全然分かんない。でも何となく兄貴や姉貴が居る家っぽいっちゃーっぽいチョイスではある。うーん。この辺の西欧ゴージャス空間と我々の家庭空間の関係ってのはホント一度考えないと駄目だな。
高級喫茶「古城」・入口
さて、そんなわけで純喫茶「古城」は凝ったゴージャスな内装だけを見に来るのも面白いが、その中に妙な懐かしさのようなものも見つけられればさらに面白いという、一粒で二度おいしいグリコのキャラメルのような喫茶店である。実はこの喫茶店が家庭料理っぽいものを出し始めたのはここ10年ほどだそうで、それから若い人が来るようになったそうだ。そういう辺りでは何か世間的なノスタルジーブームのようなものに上手く乗ったという部分もあるのかもしれないが、ここにはそれを受け止めて余りあるものがあるので、今後も新しい客を獲得し続けるだろう。

高級喫茶「古城」
住所:東京都台東区東上野3-39-10 B1F
電話:03-3832-5675
営業時間:平日8:30~22:00 日曜・祝日定休

というわけで、“城”が付く店だったのでなんとなく並べてみようかと思ってやってみたわけだけど、思ったよりも色々なものが見えてきて面白かった。流石に上野は野放図に色々な人間を受け入れてきただけはあって、そういう人々が集う店もナカナカに奥深い店が多い。上野・アメ横の闇市からの連続性に関してはもう一度突っ込みたいと思っているので、また変わった店でも探しておこう。

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