何もないことは素晴らしい:『ブロークン・フロワー』

何もかもがどうでもよくなって、閉じた貝のように一切押し黙り息を潜め、誰ももう何も構わないでくれ、という破れかぶれな疲労は誰もが経験があると思う。それが長く続くと、朝になれば空が白々するのを見るだけで気が滅入り、夜になれば闇の中でまんじりとせず宙のただ一点のみを見つめて過ごす。

はっきりいえば鬱なのだが、こういったハナシにピンとこない読者諸君はまず幸いという他ない。これからもそういった状況に陥ることなく、あなた方がその長い人生を過ごし墓場にて落ち着くことを筆者は切に願うところだ。

ジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワー(′05)』のビル・マーレィは、過去から2011年現在に至るまで、この人物がため息をつかない映画は観たことがない「ため息」役者である。垂れ目の、諦念の漂うブラッド・ハウンドのような顔には始終、残念そうな表情を浮かべているので、勝手にそういう印象を抱いてしまうのだが、それにつき物の哀切だとか苦味だとかは不思議に一切感じられない。実際にそれは、斜に構えて、事あるごとに重箱の隅をつつくような言動を繰り返し、他人を蹂躙しその困惑するさまを、フッと冷笑を浮かべて愉しむ、というようなサディスティックな一面を隠しているに過ぎない。そうでなければ、ただやる気のなさをその目元に漂わせているのみである。

ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』ごろからだろうか、以前まで見られたマーレィの陰湿な攻撃性がスクリーンでは観られない。ただの無気力な中年といったところばかりに焦点を当てられている気がする。もしかすれば、ハリウッドその他の映画人にとって、「かつては攻撃的で皮肉屋の男のその後」という背景をマーレィそのものに求めているのだろうか。

『ブロークン・フラワー』のストーリーは、ひどく単純である。同棲していた恋人に逃げられ、意気消沈しているIT系の金持ちであるマーレィの元に無記名の手紙が届く。内容は昔関係を持った恋人からで、二人の間にできた息子が近く彼の自宅を訪ねるかもしれない、とだけある。相談を持ちかけた詮索好きな隣人(ジェフリー・ライト)に後押しされる形で、マーレィは手紙の内容を確かめるべく、過去に浮名を流した五人の女に会いに行く。

正直、家でその息子が来るのを待ってればいいじゃんと思ったら、驚いたことに、女にフラれ引きこもって腐ってる主人公が、隣人のお節介焼きのジェフリー・ライトに「おれのことなんかほっといてくれ!なんで会いに行かなきゃならないんだ!」というセリフを吐く。凄いねえ、この映画そのものの存在を否定する名シーンである。明らかに今後の展開は必要がないとわざわざ示しているようなものだ。さすがジャームッシュ。そして、そこから何の葛藤もなく、空港に佇むマーレィ。どういうことだよ、それ!

ここで注釈だが(あくまで推理)、主人公はドンという役名であるが、これは17世紀のスペインに実在したといわれる伝説の女たらしのドン・ファンの引用であろうか。ドン・ファン伝説を基にしたモーツァルトの戯曲<ドン・ジョバンニ>では、数々の浮名を流し、不義を重ねたドン・ファンは最後、かつて関係した女の父親の亡霊によって地獄に引きずりこまれるのだが、本作品はいったんその地獄に落ちたドン・ファンが再び現世に戻るため(人間らしさを取り戻すため)の、贖罪行脚としての側面があるのではないだろうか?

気の滅入る日々、消えることのない疲労、闇にくるまれた日常を地獄とすれば、ドン・ファン=マーレィはこの苦行(別れた女に今さらどの面下げて会いにいくというのか?という苦痛)によって、光を見出そうとしたのかもしれない。まあ、プレイボーイという性の悲しさか、作品の端々で、女の脚やスカートの割れ目に釘付けになってしまうことはあれども。

と、いろいろ思いを巡らせるのだが、ラストシーンを観ると勝手な邪推だったかと自己嫌悪に陥ってしまう最後は、ジャームッシュの映画はやはり鼻持ちならぬという結論に落ち着くのであった。

 

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