映画『バード』の関係者評価の低さから眺めていくジャズのある側面 中編

コロナ自粛開け以降にアホほど忙しくなった上に、アメリカの情勢が書いている内容とリンクして来てしまい、イロイロと道行きが険しくなって来てしまったジャズ話の続き~というわけで、前回は映画『バード』周りのみで終わってしまったわけだが、今回からはディジー・ガレスピーへのフォーカスはそのままに、バード死後の“ジャズ”がどう変わっていくことになったかを眺めていくこととなるかと思う。
と行きたいのだが、バードの亡くなった時点での“ディジー・ガレスピー”の位置づけ~ジャズ業界的なポジジョンというものを、提示しておかないと話を進めても、なんのこっちゃか分からなくなってしまうので、まずソコから押さえておこうかと思う。

モダンジャズ創始者の中でも特に、ビバップを顕在化させたバードとディジーが若手ミュージシャン達から神様のように崇拝されたというのは、ジャズの歴史的な本で必ずといっても良いくらい出てくる話だったりするわけだが、日本では諸事情により両者の役割の違いといった辺りをキチンと説明されるがほとんどない。これに関しては評論家なんかより、ちょうど彼らが試行錯誤したいた時期に属していたバンドのリーダー~ビリー・エクスタインの説明が一番分かりやすいだろう。

プログレッシブ・ジャズとかバップてのは、コードのセオリーなんかについて、古くからあることの新しい解釈なのだ。僕はバードがこれを実際に演奏した始祖であり、ディジーはそれを作曲したと言うんだ。
みんながバードのプレイするのを聞いたが、それは非常にスポンテニアスで、彼の頭から―何も考えないで―ほとばしり出てきたものは、最高のものだった。一方、ディジーはそこにいたが、自分が何を演奏しようとも、自分のやっていることをちゃんと覚えていた。それはパターンであり、研究してきたものなのだ。ほかの人が書きとめられないことも、彼の頭の中に入っていた。
プログレッシブ・ジャズの実際の演奏は、ほかの誰よりもバードに功績がある。しかし、これを推し進めたのは、ディジーなのである。

マイルス・デイヴィスが「バードのアドリブについて行けるのはディジーだけだった。」と語るようなプレイヤーとしての高い能力に関しては言及されることが多いが、ビバップというものを“形”にしたのは専らディジーの能力に寄っていたのだ。当たり前だが、“形”にならなければそれを“普及”させることは出来ない。バードが深夜にディジーの家にイキナリ訪ねて来て「良いフレーズが出来たから聞いてくれ」と、それに(嫁も居る手前)「深夜だから明日にしてくれ」と玄関を開けずに対応すると、構わず玄関前でそれを吹き出し、慌てたディジーがそこらにある紙と鉛筆に書き留めた~なんていうエピソードそのままに、エモーショナルに駆け抜けようとするバードに付いて行けるだけでなく、そういった漠然としたものをまとめ上げる力もあったというわけなのである。

そして、その後の“普及”に関してもほぼディジーが一手に引き受けるような役割を果たしている。前回のディジーの生活態度が安定していたという話にも関わる話なのだが、モダンジャズ系のミュージシャンには珍しく人の面倒をみる(みたい)能力が大変高かった、といった辺りだ。
いわゆる「宵越しの銭は持たない」のがミュージシャンだ!という人間が多い中、若い頃から堅実な生活をしていたディジーは、そういった同僚達が困った時に金を貸したりする等、面倒見が良いということでは若い頃から一貫していた。事務所兼サロンである地下室に家用とは別に業界用相談窓口用として別途電話を引くような、世話焼き気質がモダンジャズの“普及”に大いに貢献したのだ。
バードとディジーが始めた音楽的なムーブメントが高まってくると、当然のように同僚や若手のミュージシャン達がそれを自分のものにしようと近づいてくる。しかし、バードはジャンキーである。基本自分の世話で一杯一杯で他人の世話を見ることは出来ない。それの世話を引き受けたのがディジーがわけだ。
同じトランペッターのマイルス・デイヴィスの初レコーディングに心配して付いて行き、マイルスが吹けないフレーズを代わりに吹いてあげたというのは有名だが(マイルスはバード・ディジーは親同然~みたいな発言をしている)、ドラマーのアート・ブレイキーやマックス・ローチにバップ的(ケニー・クラーク的)なドラミングスタイルの“指導”までしている。それまでのジャズ・ミュージシャンの世界は職人的な「見て覚えろ」的な世界で、演奏テクニックというのは“秘伝”だったが、ディジーは元々の世話好きに加えて、それを開放した方がジャズの発展に寄与するだろうと、惜しげもなくドシドシと周りに教えたのである。
そういうこともあり、世話になった同僚・若手ミュージシャンだけでなく、ディジーのバント・コンボ出身者を含めると、ほとんどそのメンツだけ(並べようと思ったが多すぎる)でジャズの歴史的な川筋が露わになっちゃってたり、なんかして(広川太一郎的表現)。
そして、“普及”への貢献はこういった業界手内部的なものだけではなく、持ち前のオチャラケ気質を発揮して、一般には分かりにくかったバップの広報的な役割も存分に果たしている。こういった人の前に出ての仕事は芸術肌の人間が最も嫌うというのは今も変わらずだが、モダンジャズ創始者の中ではこれをファッション性も盛り込みつつ、オモシロオカシク恥ずかしがらずに出来るのはディジーだけだったのだ。

こうして並べてみるとディジーの日本での評価が何故低いのかってのが、お分かりいただけるかと思う。日本では常に表現の最先端に居た人間だけを評価する風潮~家康よりも信長を好むようなところからすると、ディジーの“貢献”はまぁ評価が難しい辺りだよなっていう。しかし、チェ・ゲバラが何人いても革命は成功しないのだ(実際、バードもゲバラも一人になってから破綻している)。当然のようにこういったディジーの“貢献”はアメリカではキチンと評価され(向こうでは教育的な立場の人間が高く評価される傾向があるようだ)、ビバップの成立でのディジーの役割はもっと大きかったんじゃね、という声は近年ますます大きくなっていたりして。
ディジー
と、音楽的な面でのディジーの評価といった辺りを眺めてみたが、ディジーが若手ミューシジャンがからリスペクトを受けたのは、別の面もある。当時の言葉でいうと「ニグロ人種(当時の言い回しだが、現在ではアフリカ系アメリカ人~と、この辺ドンドン変わるのでヤヤコシイ)としての自覚」というものを、公民権活動が盛り上がる前からハッキリと打ち出して活動していた、といった辺りだ。バンドに所属する職人としての演奏家から個人の技術とエモーションに立脚したアーティストへの脱皮という方向は、モダンジャズ創立者達の意識として共通のものだったが、それを裏打ちしていたのは自分が属する人種の地位・意識を高めたい、そういったものを阻害する社会への抵抗を示したいという“自覚“とリンクしていたのだ。
モダンジャズ創立者のほとんどは実際トコロ、その“裏打ち”に関してややモヤッと、というかそれこそエモーシャルなものに留まったものだったが、ディジーは第二次世界大戦の徴兵検査で「あいつら(ドイツ・日本)は少なくとも俺たち(黒人)を迫害はしてない。銃を持って“敵”を撃てというが、俺たち(黒人)のケツを蹴り上げている“敵”はどこにいると思う?」ような発言をして不適格者になることで、事実上兵役を拒否する。また上記で書いたようなビバップの広報的な席でも、そういった“自覚”的な発言を繰り返す等等、行動が伴うハッキリとしたものだった(この“自覚”は父の死後に黒人による黒人ための高等教育機関であるローリンバーグ学院で奨学金を得て音楽を学んだ、というのが大きいと思われる)。公民権活動が盛り上がってから、ジャズ・ミュージシャン達がそういった意識を持つ~というのは当たり前のこととなるが、そのモデルとなったのはディジーなのだ。

こういったトコロをひっくるめると、バードが死んだ時点でのディジーのポジジョンというのは、ジャズ業界的にあらゆる点で若手(特に黒人層)の“頼れるアニキ”的な存在だったと言えるだろう。しかし、バードの死はディジー個人にとってもハッキリと青年期の終わりを告げるような出来事だった。以降、ディジーもそれを自覚したような動きをイロイロとするようになり、やや軽い“頼れるアニキ”的な存在から、しっかりとした重みのある“メンター”(“指導者”というペロンとした感じに訳される場合が多いが、スター・ウォーズのジェダイ・マスター的な意味合いも含まれている)にクラスチェンジしていくのである。
ルイ
ディジーがそのクラスチェンジに当たって、まずクリアしなけらばならない課題というのは、“父的なるものとの和解”とも言えるルイ・アームストロングとの関係改善である。
ビバップがメディアに取り上げられるようになった時期に、ジャズといえば~という代名詞的な存在だったルイのプレイとの違いを問われたディジーは、軽く「まぁスタイルを変えない彼と違って、俺たちは“学んでいる”からね」と答えたトコロ、それがルイの耳に入り「(モダンジャズは)ワケのわからない、チャイニーズミュージック」と明らかに好意的でない返しをされたことで、冷戦状態に陥ってしまっていたのである。ディジー的には自分の音楽的“革命”の正しさを証明するために、それにキチンと反論しなければならなくなってしまったのだ。それぞれの世代を代表するような立場だったため、世代間の“音楽観”的に抜き差しならないものがあったのだ。以降、ルイはバップ的なものに疑問を投げかける発言を繰り返すこととなる。
そして、ルイが生まれ故郷のニューオリンズのマルディグラ祭りで行った、悪名高いミストレルショーを思い起こさせるような“ズールーの族長”の扮装を、若手の“自覚”ある黒人ミュージシャンの代表として「彼は、我々若い(自覚ある)黒人を憤慨させるプランテーション・キャラクターである」と批判して対立は決定的なものとなってしまうのである。以前からルイに燻っていた“アンクル・トム(白人に従順な黒人という意味)”という揶揄を、陰口ではなくハッキリと表明してしまったわけだ。
しかし、ディジー自身は存在そのものが“ジャズ”であり、実際その“ジャズ”の発展に関して、全てのジャズ・ミュージシャンが影響と恩恵を受けていると言えるルイ・アームストロングを、同じトランペッターということも含め、深くリスペクトしており、そういった対立関係に陥ってしまったことを、ほとんど後悔するくらいに遺憾に思っていたのである。しかも、この対立によってディジー側に立つ若手ミュージシャン達の中には、それを単純に捉えて“古い”ミュージシャン達を軽視するものも現れて来たりして、ジャズ業界的にも悪影響が大きかった。こういったことから私的な席で和解すれば、どうにかなるという問題ではなくなっていたのだ。和解するには関係者が大勢いる公式の場で行う必要があった。
ルイとディジー
その機会は1958年の第一回モントルー・ジャズ・フェスティバルで訪れる。おそらくディジーを含め関係者が尽力した形なのだろうが、初日のトリを務めるルイ・アームストロング・オールスターズの前はディジーのグループ(共演はソニー・ロリンズ、ベニー・カーター、ベン・ウェブスター、ジェリー・マリガン)。ティジーは自分たちの出番が終わった後にマイクを取り「偉大なるキング、ルイ・アームストロング!」とルイを呼び込み、舞台中央にやってきた彼の手を取りキスをしたのである。おぉっと驚きの声を上げつつも、ルイは破顔してそれを受け入れる。どうなるかと緊張して舞台を見ていたジャズ関係者やジャズファンたちも、それ見て大いに笑って“和解”は成ったのである。

二人はニューヨークのクイーンズの近所同士ということもあり、以降ディジーは現在は博物館になっているルイの家へ入り浸ることとなる。子供を望んでも出来なかったルイからすると(若い頃からのマリファナの吸い過ぎによる精子数の減少が原因とも)、ディジーとの“和解”は“放蕩息子の帰還”のような喜びもあったようで(ルイは敬虔なカトリック教徒)、和解の次の年のルイをフューチャーしたテレビ番組で、他の共演者達(大物大勢なのに)とは一線を画するように、「with Dizzy Gillespie」という形で単独での共演も果たしている。この二人の“和解”は業界的にも影響が大きく、主に若手の回顧ではない、上の世代の再評価という方向での交流が盛んになっていくのだ。

と、通史的な感じで二人の“和解”を紹介してみたが、実際は二人が“和解”を意識し始めるのはどうももっと早く、まだバードが生きていた1952年にディジーがルイをおちょくりつつリスペクトをカマした「Pops ‘Confessin」を録音し、1954年にルイの方が“The Boppenpoof Song”とサブタイトルを付けたビバップ風刺風味の「Whiffenpoof Song(カヴァー曲が多い合唱曲)」を返していたというように1950年代の前半から、お互いを意識した“交流”が始まっていたようである。
そして、“接近”ということで決定的だったのは、1956年にディジーがアメリカ政府の要請により第一回目の“ジャズ大使”となっての各国での公演を、「ディジーは本当に上手くやってるよ。」とルイが褒め称えた、といった辺りだろう。
この“ジャズ大使”は米ソの対立が高まる中で、ソ連がアメリカを“物質主義的な人種差別国家”と非難し、クラシックやバレエでの文化外交を行っていたことに対抗して、ジャズを自由(ヨーロッパではファシズムへの抵抗の象徴としてジャズが受け入れられていた)と人種統合というアメリカズムを象徴するカルチャーとして発信していくという国策に沿って行われたものなのだが~
しかし、先ほどのディジーの“徴兵拒否”のエピソードからすると、モロ出しな国策に真正面から参加するってのは変じゃね、というのを当然お思いになるかと思う。が、実はこの辺りがディジーとルイが接近することになった強めの要因だったりするのである。

ルイ・アームストロングというと、恐らく一般的なイメージは「この素晴らしき世界」を歌う健康な善良さを形にしたような人物といった辺りだと思われるが、その実際に関しては、死後に彼が大量に残した録音テープ(彼は録音魔で“よしなしごと”の全てを吹き込んでいた)の調査が進み、かなり複雑な人間だったというのが明らかになってきている。というか、世間的に“イイ人”と言われている人がややこしくない訳がないんだが。
ルイはその白人層にも受け入れられるイメージを裏切らず戦中には慰問活動をバリバリと積極的に行っている(徴兵年齢を超えていたというのもある)。これがディジーが批判したように“自覚ある”若い黒人層から“アンクル・トム”とも揶揄される原因ともなっているのだが、政府の方から目玉と目されていたにもかかわらず“ジャズ大使”となるのはディジーよりもかなり後なのだ。始めの頃は単に仕事のスケジュールが合わなかったというのもあるのだが、その後は南部での人種問題が解決していないのに、他国でわしら人種融和の国ですわとアピールするのはアホか!というのが理由で断っているのだ。何でも政府に協力するのではなく、自分たち黒人の地位が社会的に向上するに寄与する活動か否か、そして断るに当たってもそういった方向で政府側にコッチの言い分を通すように出来るか、といった辺りをキッチリと見極めた上で、かなり戦略的な対応をしていたのである。この自分の評価を顧みずしっかりと果実を取りに行くという現実主義的な態度がディジーとルイを結びつけることになるのだ。
郊外
これには当時起こっていた1950代のアメリカ社会の大きな変化~本国が戦争に巻き込まれなかったことにより、第二次世界大戦後から続いていた経済成長が安定期に入り、中流層以上(まぁほぼ白人だ)が郊外の庭のある家を買って、そこで子供を育てる~というベビーブームの時代の到来(テレビドラマ『奥様は魔女』よろしくのテンプレート的なアメリカ家庭イメージの源流)。そしてその経済的な安定により楽観的になった白人達に支持される形での公民権運動の盛り上がり(上記のように為政者側の都合による冷戦対応というのもある)、というのがモロに関係している。
ジャズは元々アート・ブレイキーが「日々の生活で付いたほこりを洗い流すもの」と語るように、庶民的生活のすぐ隣にある“芸能”といった側面を強く持つ出自の音楽である。ブルーカラー仕事で一週間仕事でクタクタになった後に、ナケナシの金を持って聞きに行き、また一週間働く気力をもらうという、ハレの“芸能”だったわけだ。しかし、すでにビバップの登場でアート的な取り扱いは都市部で始まってはいたのだが、1950代に入って郊外の家でレコード(1950年代はシングル、LPレコードの普及の時期でもある)で生活のイロドリとして聴く白人が客層の中心となっていくと、客と対面してのギグよりは作品としてのレコードが重要視されるようになり、“芸能”的な側面は切り落とされて行ってしまうのだ。
これは外の状況の変化だけではなく、黒人中心のジャズミュージシャン達が望んだ故でもある。公民権運動が盛り上がる中で“自覚”が高まった若手のミュージシャンが河原乞食的な芸人としてではなく、芸術活動を行うアーティストとして評価されたいというは、当時の状況を考えると当然の流れである。

ルイ・アームストロングはニューオリンズの路上で“芸能”として産まれたジャズの申し子と言ってもよいミュージシャンなわけだが、後期(第二次世界大戦後)になるとミュージシャンとして“前進”を止めたように見えるのは、恐らく“芸能”から“芸術”へジャズが寄っていくことで、客との双方向性というかフラットな関係を土台とした“ストリート性”のようなものが喪失していくことに気づいていたからなのではないか。
ディジー・ガレスピーもモダンジャズを創始し、“黒人としての自覚”を啓蒙することで、“芸術”としてのジャズを準備したのはアンタじゃね、というようなところがあるのだが、オチャラケ体質を包み込んだ形でのエンターテイナー要素が非常に強いミュージシャンである。何よりもモダンジャズ自体“ザ・ストリート(ニューヨーク52番街)”で産まれたストリートの音楽である。

しかし、1950年代に公民権運動が盛り上がって“黒人としての自覚”がさらに高まってくると、若手たちから二人はひっくるめて「客に媚びている(マイルス・デイビス)」と言われるようになってしまうのである。
これは音楽性の問題だけではなく、黒人としての政治へのコミットの仕方~後にストークリー・カーマイケルが“ブラックパワー”を唱えたときのキング牧師との対立的な状況が、先端を走っていた文化故にかなり早めに当てはまる状況になってしまったというわけなのだ。キング牧師の批判は今でも完全に通用する内容である。

絶望から発せられた「ブラック・パワー」のスローガンが黒人を結束させるのに何らかの力になりえたとしても、それは黒人全体をアメリカ社会の中で孤立させるだけだ。アメリカは、すべてのグループがお互いに頼り合っている様々な人種の複合体国家なのであり、黒人が人種差別から開放された暁にも多数を占める白人たちと共存していかねばならない。有色人種が多数を占める旧植民地における運動とは根本的に条件が異なっている。低開発地域の有色人多数諸国でも人民多数の道徳的指示なしの武装抵抗は勝利する可能性は低く、ましてアメリカのような国では武装抵抗は自殺行為である。

ルイとディジーは恐らく出自の段階から背負ってきたストリートのリアルとして上記を肌感覚として知っていたのだが、二人が“場”を用意した後にジャズを始めた後の世代は、“芸人”から“芸術家”という流れにハマる形で真っ当な家庭出身のものが多くなる(マイルスはほぼ特権階級のような富裕層の出身)。彼らはストリートのリアルよりは、個人の自尊心に結びついた形での理念に重きを置くことになる。こうして、ジャズ自体にリアルな“大衆”を引っ張っていく力が無くなっていくのだ。“大衆”の音楽としての地位を、新たに登場して来たストリート性をもった音楽~リズム・アンド・ブルースやロックンロールに譲るということになってしまうのである。
状況的に先鋭化しているようには見えるが、個人個人の中だけで何事かがイキっているだけで、一般からは乖離しているため、全体としては尻窄みとなっていく~というのは社会運動だったりカルチャーだったりで、いくらでも見ることが出来る流れではある。
現在では、黒人の地位向上にルイ・アームストロングがリトルロック高校事件での発言等で大きな役割を果たしたということは、向こうの教科書にも乗っているそうだが、彼のようにあくまでも“果実”を取りに行く現実主義を土台した行動は、イキってしまった後の世代から見ると“融和的”と映るのである。

では、ルイとディジーをまとめて批判したマイルス・デイビスは確かにその後のジャズシーンを牽引していくことになったが、そこにストリート性があったのか?となると、マイルスの音楽的な遍歴というのは、結局獲得し得なかったストリート性を求めて迷走しつづけた~と見ることも出来る。以降のジャズはビリー・テイラー曰く「本来ビバップにはユーモアと音楽的ジョークが豊富に含まれていた。」といったトコロからは離れ、生真面目なアート的なものへと変わって行ってしまうのである。

これは当然、ジャズファンの変質も伴ってくる。日本のジャズファンが面倒くさくなってしまった理由というのも、この影響なのだ。戦争の記憶や貧しさを土台にしたアート・ブレイキー曰くの「日々の生活で付いたほこりを洗い流すもの」ところから、高度成長と共に分かりやすく自尊心を満たすための贅沢品となり、60年代に入るとジャズ喫茶でベタな曲を頼むとバカにされるという、言わば都市に馴染もうという田舎者(地方出身者とイコールではない)がジャズに耽溺することで、都市生活者になるという通過儀礼の道具として~かつての落語のような文化と同じような(ジャズファンと落語ファンはカブっている場合が多い)メンドクサさを帯びた文化へと変わっていくのである。ジャズ喫茶経営者だった村上春樹がスタン・ゲッツの評伝を訳す~という“白さ”というのは分かりやすい例だろう。
このジャズのメンドクサさというのも、もはや発掘でもしないと見ることが出来ないようなハジッこの文化になってしまったため、一応それを知らない人のために、何か分かりやすいもので説明すると、雁屋哲の『美味しんぼ』を本気でやっている世界を想像してもらえば良いだろう(『美味しんぼ』には実際ジャズ喫茶をネタにした話もある)。今では完全にギャグ以外のナニモノでもない、ああいった意味のない戦いをミュージシャンでもない人間達が本気でやり合うような時代というのがあったのである。
これは、大島渚曰くの「60年代の運動の指導者達(全学連)は大衆を引っ張っていこうという意思があったが、70年代の奴ら(全共闘)は彼ら自身がモッブだった。」という社会運動の変質ともリンクしている。

ルイとディジーの二人はこの50年代に起こった大きな流れに抗するとまでは行かないが、どうも自分達のリアルとどうも違うんじゃないかという思いがあり、価値観が近かった二人の距離をググッと近づけることになったのだ。ディジーも先端で突っ走っている時は気づかなかったが、自分の影響を受けた後の世代が出てきてそれを自覚したといった辺りだろう。

こういったディジーの自覚の後に実際の“運動の時代”がやってくる訳だが、その中でディジーがどのように行動していったかは次回にどうにかしよう。

最後にオマケとして、結構面倒くさい人であるルイ・アームストロングは本当にディジーを許していたのか、という話なのだが、ルイのバンドメンバーがディジーと仲良くなったら大丈夫だろうと、バップ的な演奏をしたところ「くそバップみたいな演奏するな!」と怒鳴られたそうだ。あくまでも許したのはキチンと自分と正面から対峙したディジー個人であって、その周りで便乗してワイワイしていた連中含めてのモロモロは許さなかったようで、面倒さが変わったというわけではなかったようだ。

さて、逆にディジーのルイへの“思い”だが、それが分かりやすく出ているのは、1970年のニューポート・ジャズフェスティバルでのパフォーマンス~このフェフはルイの誕生日と病気復帰兼の席でもあったのだが、ディジーはリスペクト入りまくりのスピーチ(「彼が居なかったら、ぼくら一人として存在しなかったでしょう。」)と演奏の間に、清水アキラ風味のおちょくったような真似を披露している。実際、ルイは淡谷のり子ばりにというほどではないがムッとしたとも伝えられているが(途中両者と昵懇のエラ・フィッツジェラルドが笑いつつも「大丈夫なの?」みたいな感じで映っている)~わざわざこのような場で、こういった真似を披露したというのは、父なるものの“聖化”は拒否する(したい)というディジーの思いが込められていたと見るべきだろう

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