「湯島天神」中編 ニッポン花街・遊廓跡めぐり

湯島天神の最寄り駅はメトロ湯島駅である。というわけで、まずは駅出口がある天神下交差点に移動して、一般参拝客よろしくのルートでそっちに向かうことにしよう。これ読んで訪れたいって人も万が一居るやもしれんし、分かりやすいだろうと。出口は三番出口が近いのでお間違えなく。また写真と撮った時期は結構バランバランなのでその辺はご注意を。

この春日通りと昌平橋通りが交わる天神下交差点は、関東大震災後の区画整理によって昌平橋通りが不忍通りまで延長されて出来たものである。前編でふれたようにこの辺りは大きな花街的なエリアとして機能していた部分があったんだけど、先に出来た春日通り開通と合わせてのこの“分断”によって、それぞれの花街(湯島天神、池の端数寄屋町、天神下同朋町)の方向性のようなものもハッキリと変わってくるののだ。この辺は湯島天神の次にやろうと思ってる下谷の花街の方で突っ込んでいく予定である。

東京都文京区湯島3丁目30

“突っ込む”という言葉ついでに、この湯島天神下(どっちかいうと男坂下の方)には陰間必需品の薬・通和散を販売する「伊勢七」という店があったんだそうだ。通和散ってのは今で言うローション。黄蜀葵 (とろろあおい)の根っこを細かく挽いて何度も粉ふるいをかけたものなんだが、それをぬるま湯で溶かして使用したらしい。他でも売っていたらしいが、「伊勢七」のが質が一番良いと評判だったんだそうである。「天神のうら門でうる通和散」なんて川柳も残ってる。この場合の“うら門”はダブルミーニングだな。
湯島天神下交差点
天神下交差点から湯島天神へ向かうには春日通りを本郷方面へ。つまり切通坂を登っていくのが最短ルートである。道路左側歩道をオリジン弁当やらの前を抜けて、東京うどん天神の先、居酒屋「シンスケ」の手前を曲がるのがよろしい。本当は真っ直ぐ行って切通の途中にある登龍門(夫婦坂)から入るのが身体的には負担が無くて楽なんだけど、ちょっと男坂・女坂方面から神社に入りたい理由があるのだ。
居酒屋・シンスケ
この角にある「シンスケ」は大正14年(1925年)創業の由緒ある居酒屋で、その手の雑誌が名店居酒屋特集なんかをやると必ず登場したりする有名店である。嵐山光三郎氏や太田和彦氏の本で知ってる人も居るんじゃないかな。酒は一種類のみというハードボイルドさから来る雰囲気がナカナカよろしいのだが、居酒屋としてはお値段も微妙にハードボイルドであり、いい店だけどちょっと通うには難しいかなという。まぁ、酒飲みながらやたらと食い物注文する自分が悪いんだけどさ。ということでしばらくご無沙汰なんだけど、どうも最近ミシュランの星も付いたらしく、そういうのがお好きな紳士・マダムが押し寄せやがるので、ますます足が遠のいちゃって。別に誰が何処で何食おうが知ったこっちゃないけど、流石に運転手付き黒塗り車をそこらに停めっぱなしはどうなんでしょか。店にも近所にも迷惑だし。というか、居酒屋くらいてめえの足で来い。
湯島天神下・讃岐屋氷室
ヒートアップしつつちょい進んだところには、うまい具合に氷屋がある。この讃岐屋氷室は現役バリバリの氷屋で、夏場のほどよい時間に通りかかると店の前でシャカシャカと氷を切ってるのを見れたりする。この手の昔ながらの氷屋が生き残ってるってのは、同じく昔ながらのバーや飲み屋が顧客として近場に生き残っているということでもある。
湯島天神下・讃岐屋氷室横駐車場
ただ、氷屋の隣も歯が抜けたように駐車場になっちゃってるけど、この辺りここ数年でズンズン古い木造日本家屋が消えてイッてるんだよね。というか、湯島から本郷にかけての辺りでここ数年異様にマンション建設が多いんですな。それだけ開発の手が伸びてなかったってことだろうけど、バブル期に上がっちゃった地価からくる税金の負担ってのが、今になって効いて来てるってのもあるんだろうね。プラス住居都心回帰みたい需要があって。
湯島天神下・魚志ん
湯島天神下・三好菓子店
すぐ先に野坂昭如が丸谷才一に連れて行ってもらったと『東京十二契』に書いた割烹「魚志ん」も残ってはいるんだが、「木造三階建ての、珍しい家並み」「(魚志ん)の一劃の、あの落着いたたたずまい」という姿は無く、すでに思いっきりオサレなビルになっちゃってるんだな、これが。白黒の方のは昭和のオワリ頃の「魚志ん」隣の三好菓子店の写真。「魚志ん」の看板も見えるかと思う。野坂昭如がみたのはこの頃のこういう木造三階建てだ。なお、外壁がトタンになっている三階建てならまだあるので来た人は探してみよう。
湯島天神下・木造家屋その一
湯島天神下・木造家屋その二
湯島天神下・空き地
男坂・女坂下周辺には古い湯島の風情が一番濃厚に残っているなんて言われたりもしていたわけだけど、それも後数年だろう。明治時代のこの辺りから三組坂の間は坂下のパッとしない土地ってことで、安宿やら安下宿が多かったようで、上京したての宇野千代や五島慶太なんかも住んでたりしている。
湯島天神下・路地その一
湯島天神下・住宅その一
湯島天神下・住宅そのニ
よく考えたら、自分は彼らの後継なわけだ。しかし、住んでてなんだけど今もパッとしないっちゃーしない場所なんで、その辺りで古い木造家屋が残ってたってのもあるんだろうと思う。残りっぷりも開発されっぷりも、注目されてってわけじゃないって辺りが、この土地らしいんである。
菊岡三絃店
もちろん、花街の残り香もがするような店もキッチリと残っている。四代続く三味線の専門店、菊岡三絃店。元々は幕末の頃に浅草で開業。終戦後の昭和25年(1950年)にこの場所に移って来たそうで、つまりその頃は周辺の花街の景気が良かったっつーことだろうね。長唄三味線方の名跡である杵屋五三郎の初代が湯島の生まれ(で在住)だったって辺りも関係あるのか、この辺りには昔からその手の師匠が多かったってのもあったようだけど。今じゃ三味線の音なんて聞こえてこないけどねぇ。
因みに、三味線って言えば猫の皮って話が出るが、国内の動物愛護団体がやかましいってのもあり、今じゃ皮はほぼ(中国からの)輸入品なんだそうである。ナンカ監視カメラがあるけど、その辺のパーツ含め高級品っつーことなんだろうね。
なお、この店の向かいには(恐らく戦後もしばらく)櫻湯という銭湯があったらしく、上下の花柳界関係者が仕事前に入りに来たそうである。
湯島天神下・はぐろ洞
さて、ここで一旦氷屋の前まで戻ろう。その氷屋の斜め前、女坂入り口の角にちょっとそこだけ時代感が違うような(さっきの野坂昭如の本には「ものものしい構え」と書かれている)木造の建物がある。実はここに寄るためにこっちに道を選んだのだ。現在、この建物は美術商「羽黒洞」のギャラリーである「天神下 はぐろ洞 」という店になっている。が、用があるのはこの店でも建物じゃなくて、この店の創業者・木村東介(初代)である。
木村東介
この羽黒洞主人・木村東介は美術商・骨董商としても巨人だったのだが、建設大臣を努め「元帥」と呼ばれた政治家・木村武雄の兄であり、若い頃は壮士よろしく暴れまわって左手首を切り落とされたり、中野正剛自刃時にただ一人花輪を出したり、占領下に潜行三千里・辻政信を匿ったり(その縁で辻の長男と東介の長女の親友が結婚している)と、紹介するだけでも疲れてしまう、詳しくはググってくれと言いたくなるほどエピソード満載のユニークな人生を送った人物である(平成4年に90歳で死去)。

そして、ミュージシャン絡みの本を良く読んでいる人は来店したジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫婦に日本の書画骨董を売った人、その後に歌舞伎座に連れて行った人として記憶しているかもしれない。売った掛け軸の中に白隠和尚の書があって、そこから禅を学んで「イマジン」が生まれたとか、歌舞伎座で歌右衛門(六代目)の楽屋へ行き「ビートルズの首領、ジョン・レノンが会いに参りました」と紹介したとかいうホンマかいなという話もあるんだが、このような面白すぎる生き方の人物を出版社が放っておくはずもなく、エッセイ的な本をちょこちょこと出していたりする(文章もナカナカ豪快)。そしてここが重要なんだが、そういう本の中に湯島話と一緒に自らの女道楽、湯島天神の芸妓をコレにしていたことなんかを書いていたりするのである。
自分は花街や遊廓の往時を知るような年齢ではない。ということで、このシリーズでは毎回案内役になるような人物(が書いた本だけど)をピックアップして行こう思っているのだが、今回の湯島天神花街の案内に木村東介以上ウッテツケの人物はいないってのを分かって戴けただろうか。っつーことで以降ちょぼちょぼ登場してもらいます。
湯島天神下・女坂へ向かう路
ということで歩を進めよう。このまま「天神下 はぐろ洞 」の横を抜けて女坂へ。この道もここ数年で木造家屋がなくなりマンションになっちゃったりしている。実はこの道は以前を仕事帰りの近道として使っていて、途中にあるラブホテルの窓がちょっと窓が開くのか知らんが、タマに喘ぎ声が思いっきり聞こえちゃったりして閉口したり興奮したりしながら通っていたんだが、しばらくぶりに来たらまだ有りやがんの。マンション建設時に無くなるかと思ったんだけど。というかマンション住人どうしてんだ。なんか場違いな南欧風の住宅も出来てるし。戦前ここらに関東に名を轟かした大親分、国粋会の梅津勘兵衛が住んでいたそうだが、そこが今はマンションでホテルで南欧ってのは東京らしくて宜しい。
湯島天神下・よろずや
花街衰退後、湯島と言えばラブホテル街ってことで、池波正太郎を筆頭にいろんな作家がナンダカなみたいなことを書いている。映画『マルサの女』の山崎努演ずる権藤が隠れ経営してるラブホテル群の中に湯島のもあったはずだ。しかし、その頃のバブル期をピークに今じゃ大分数が減り、その後には木造住宅なんかと同じくマンションが建ったりしている。ラブホテル全体としての需要が減ってるってのもあるんだろうけど、若いカップルが来るような場所じゃないし、車じゃないと場所的に使いづらいって辺りだろうね。花街衰退の原因ともややかぶっているんだけどね。そうそう、はぐろ洞裏には魚の味噌付け店・よろずやがあるのでそういうのが好きな人は寄ってみると吉。
湯島天神女坂・おんな坂碑
道の突き当りには原田悠里「おんな坂」歌唱記念(北島三郎書)の碑が建っており、この前に休みの日には必ず占いが出ていて、女性客で繁盛してたりシテなかったりする。最近この手の「運命鑑定」みたいなの夜の町中でよく見るけど、やっぱり景気が悪いってのも関係あんのかな。
湯島天神女坂
湯島天神女坂横の石垣
湯島天神・女坂は横の梅林と石垣に挟まれ、江戸時代と変わらないような雰囲気があるような個人的にも好きな坂である。まぁ、流石に休みにはカメラ親父が大量に湧いてくるので、朝早くか夜限定だけどね。登り口横の石垣は湯島天神の立地の高さがひと目で分かる唯一の場所であるし、途中には寄進者名が刻まれていたりするので、その辺もチェックポイントだ。下の写真のような浄瑠璃連と彫られた名前も並んでいたりする。芸事関係者は当たる当たらないってのがあるから昔から神社への寄進(というか神頼み)は普通のことなんだよね。
湯島天神女坂下小路
と、ここを登りたいトコロを抑えて横の小路に入る。この小路の途中に短期間ではあるが久保田万太郎が住んでいたんで、ちょいと寄ってから(どの家だったか詳細は不明)。この湯島の家は戦争で焼け出された万太郎がようやっと手に入れたものだったりするのだが~
湯島天神の久保田万太郎
久保田万太郎の最初の妻・京子は花柳界(浅草)出身。昭和10年(1935年)に万太郎の浮気性で傲岸な性格が原因で、自死に近いカタチで“事故死(睡眠薬量の間違い)”している。流石に反省したのか、再婚するのは息子の結婚後の昭和21年(1946年)。しかし、その再婚の相手である同じく花柳界(湯島天神出身かは未確認)出身の君子(きみこ)は二十以上歳下で最初は喜んでいたものの、いざ暮らし始めると万太郎顔負けのアレな性格で、こりゃタマランと万太郎はこのせっかくの湯島の家を出奔してしまうのだ。“短期間”てのはそういうわけ。晩年の万太郎が文壇・演劇界の妖怪となり嫌煙されるような存在になっちゃったのはこういう私生活事情もあるようなんである。
久保田万太郎
その後、万太郎は六十を越えてようやく甲斐甲斐しく尽くしてくれる同年代の同じく花柳界(吉原)出身の一子(いちこ)と巡り合い(昔馴染みだったとも)、赤坂に居を構えやや落ち着くわけだが、当然のように君子は離婚に承知せず、周囲の人間が湯島を“北朝”、赤坂を“南朝”と呼ぶようなゴタゴタが続くことになる。そんな中で最愛の一子が急死してしまい(間に息子も亡くしている)、その悲しみの中で読んだのが有名な句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」なのだ。全員相手が花柳界出身ってのもあり今回的にこの話はふれておかないとね。
湯島天神女坂からの眺め
なお、万太郎は一子の死の半年後、梅原龍三郎邸での宴席で寿司を喉につまらせて急死する。君子はその後もここで「久保田」の表札を出し、この地でお茶の師匠とかしながら十数年前まで健在だったとも聞く。どうも万太郎死後もゴタゴタは続いたらしく、出版社を含む万太郎関係者からの評判は最悪だったそうだけど、まぁどっちもどっちだ。万太郎が息子と一子が死んだ最晩年に著作物一切を母校(慶應)に寄付しちゃったのはこういうことかっていう。
その万太郎のことをご近所だった木村東介はこう回想している。

万太郎さんが、文化勲章、芸術院会員、法務省更生保護委員その他、長のつくいかめしい肩書きをいろいろと身につけたことは、いいたいことのなにひとつとしていい得なかった過去の気の弱さを自ら護らんがための、いわばサザエの殻のようなもので、柔らかい中身と硬い外観とは、およそ裏腹なものであった。

湯島天神男坂
ちょっとわびしい気持ちになりつつそのまま小路を抜けて男坂へ。女坂を見たすぐ後だとなんだかヒドく切り立っているように見えるな。女坂は江戸中期頃に後から作ったものだそうで、倍の長さにして楽に登れるようになっているとのこと。この丁寧な仕事っぷりは両坂が単なる神社の参道(裏門)ってだけじゃなく、主な移動手段が徒歩だった江戸時代には本郷方面へ抜ける幹線だったからだ。
安政の頃の広小路から湯島天神地図
その頃の地図を見ると、当時最も繁華な場所の一つだった下谷(現上野)広小路から男坂の方に真っ直ぐ道が伸びており、本郷台地上に上がるのに一番分かりやすい道だったのが分かる。当然、人の流れも多いってことでこの“天神下”の通りもそれなりに繁盛することになるのだ。このシリーズで後に紹介することになるだろう下谷同朋町はこうして発展していった街である。
湯島切通坂
春日通りになる遥か前、この頃の切通坂は階段じゃ通れない荷車や籠なんかが上がり下がりするための補助的な道で、見ての通り(地図の方ね)今よりも細くて、しかも勾配が急だったようだ。木村東介曰く、坂下には勾配が緩やかになった昭和に入っても「雲助のような」が5人くらいとぐろを巻いていて、リヤカーや馬力のない車から小遣いを貰って“押し屋”をやっていたそうなので、江戸期からそういう荒っぽい連中がタムロしてて、陰間との対比が面白いような感じになっていたのだろうと思う。名人・三遊亭圓朝は切通坂下の生まれ(天保の頃)だそうで、その辺を見て育ったんだろう。
湯島天神男坂下
男坂を登る前に振り返ると、そこには湯島聖天・心城院、美術茶房・篠(甘味処)、酒席・太郎なんかがある。酒席・太郎は講談の人間国宝・一龍斎貞水師匠の女将さん(外房小湊出身)が自宅一階でやっている居酒屋。非常に評判もよく一度入ってみようと思っているのだが、前を通った時に中を覗くと何時もカウンターに常連さんがいっぱいで未だ果たしていない。でも店に入れそうで入れないっていう時の気持ちも嫌いじゃないので、このまま入らないかもしれない。
湯島天神下・路地そのニ
途中にある小路にも古い家屋が並んでいるので入ってみると良いだろう。
湯島天神下・石垣
人ん家の駐車場奥に古い石垣も見ることが出来る。迷惑にならんようにね。
湯島天神男坂上
と、戻って一気に男坂を登る。真ん中の波波の手すりは数年前に取り替えられたものである。この坂上(と途中)には不忍池を望む景色を見せて飯を食わせる茶屋が並んでいたというのは前編でふれたが、当然ながら今はビルが見えるばかりだ。神社側もがっかりしちゃイカンと配慮しているのか知らんが宝物殿やらの建物を作ってそっちが見えないようにしてある。
井上安治・東京名所「ゆ島天神」
湯島天神男坂上鳥居よりの眺め
唯一、男坂下の参道は昔を同じように広小路まで抜けているので、どんなもんか井上安治の版画集『江戸名所』の湯島天神と同じようなアングルで撮ってみたがナンカ違う。というか茶屋が無くなって鳥居向こうの景色が変わっているだけじゃなく、境内のいちょうも育ちすぎだ。
湯島天神
湯島天神の正式名称は湯島天満宮。観光的な説明はネット上にいくらでもあると思うのでイランと思う。イラなくない情報としてはこの神社、江戸時代は富籤(富突き)で有名だったという辺りだ。落語の「水屋の富」、「宿屋の富」などナンカに出てきて、志ん生・志ん朝親子が演目にしていたのでソッチが好きな人はお馴染みの話だろう。
河内山宗俊
神社(もしくは寺)が修理・改築なんかを捻出するのに幕府の許可を得てやっていたもんだけど、湯島なんかはほとんど興行化していて年3回、許可されれば4回ほどやっていたそうである。大きな木の箱に番号の入った木札を入れ、よーく混ぜてから小窓を開け、そこから長い錐で突いて当選番号を決める。当たる千両が現在の一億以上だから結構なもんだけど、その内の二割を興行主(湯島天神)が持っていく。いわゆるテラ銭っていう言葉はここから来てる。しかし、富籤は一枚・金一分(3~5万くらいか)もするので、共同で買うなんてことが多くて、そこからの揉め事も多かったようだ。後には、財政的に苦しくなった大名が興行を始めたりして、勝新がテレビで演じたりした有名な茶坊主・河内山宗春(役の場合は河内山宗俊)がインチキ興行をした水戸藩を強請ったりもしている。
湯島天神・境内
面白いのはこの富籤の興行、陰間と同じように天保の改革で全面禁止になってるのだ。当然ながら神社の経営は苦しくなる。というか以降、昭和に入ってもこの神社の経営はず~と苦しかったようなのだ。この辺を木村東介はこのように書いている。

~庶民と一般大衆から、天神様は見放されていた。戦後は焼け残ったものの、天神経営は愈々困難を極め参詣人は全く途絶えてしまった。祭りを出すのに経費がかかるから出しようがない。御輿など担げない。丸一年の収入は賽銭わずか六百五十円。

といったようなひどい状態だったらしい。切通坂の方にある地下駐車場はその頃に困って作ったものだそうだ。が、高度成長期が訪れると状況が全く変わってくる。

しかし、それまで窮迫した天神様に奇跡が起きた。すなわち、入学や進学の少年少女達にご利益があるという噂と仮説だ。それは近隣の人と関係なく、遠く北海道、九州、四国、奥州から東都に進学を志す親や子で、江戸期に伊勢参りに庶民が押し寄せたように、祈願をこめる人々が多くなったのだ。

合格祈願ってのは他の人間が落ちることを願うのと同様だから一種の呪詛なのだと深沢七郎が看破していたが、そういう意味では怨霊の第一人者として定評のある菅原道真にお願いするってのは誠に正しい姿である。そういやこの神社『帝都物語』にも出てきたよね。
湯島天神・絵馬
現在は受験シーズンだけではなく、土日ともなれば境内はそういう呪詛を行う人でいっぱいである。今の宮司さんはやり手だそうで、そのような人達を相手の商材やらイベントやらをイロイロと増やし、業績(っていうのか)をグングンを上げているらしい。自分が通うようになったここ数年だけでも施設がドンドンと充実してきて結構なことである。
湯島天神・猿回し
湯島天神・お面売り
自身で食っていけるようになったのも原因なのか、良くも悪くも東京の神社らしい雰囲気が強く、その商売っけの強さを差し引いても、境内に居るとそれなりにイイ気分になれたりする。
湯島天神・射的銃
湯島天神・射的屋
その中でも腐りかけの銃で営業する射的屋がいい味を出している。江戸の頃は矢場女だったんだろうが、今はオッサンが子供の相手をしている。銃は古いが景品はワンピースとAKBだ。他の露天も何やら古風な感じなのが多いのは、その辺絞ってるのかな。
湯島天神・額堂
忘れちゃいけないのが奉納者名のチェックだ。手水舎の隣にタバコスペースとしてリーマンがよくタムロっている建物(額堂)がある。ここに奉納額なんかが掲げられているのだ。しっかし、古いのは色が落ちていて分からない上に、ハトよけの網がくっつけられていて、さらに分かんないのだ。内側に掲げられてるのは暗くて全く分からん(ナンカそれらしきものはあるんだけどね)。
湯島天神・奉納額
丹念に見ていくと、撫で牛側の奉納額にいくつか湯島天神花街の店らしき名をいくつか発見できた。『全國花街めぐり』にも出てくる料亭・松仲と待合(だと思う)の大和屋とか。しかし、まとまっての「三業組合」的な奉納名は発見できなかった。「魚十」とかも派手に名前があるかと思ったんだけどねぇ。“地味”という花街の性格から外れてはいないんだけど、規模的に小さかったってのもあるんだろうな。どっかにあるのか知らんけど。それはともかく、上を凝視して奉納者名チェックしてたら普通の参拝者に怪訝がられたりして。その通りでございます。
湯島天神・小唄顕彰碑の木村東介名
なお、この神社内にはさまざまな記念碑が山ほどあり、記念碑の前に記念碑が建てられ後ろのが隠れちゃってるのもあったり。さっき紹介した久保万太郎やらの文学者もそうだが、花街と関係ありそうな小唄顕彰碑には今回の木村東介なんかの名も見つかられるのでモノズキの人は細かくチェックしていくと良いだろう。
湯島天神・戸隠神社
以上のチェックが終了して花街跡に向かいたいところだが、一旦神社裏から夫婦坂から切通坂へ出ることにする。途中の神社裏には元々この地にあったという戸隠神社が追いやられたようにある。戸隠神社の祭神はアメノタヂカラオ(古事記では天手力男神)。アマテラスを岩戸から引きずりだした力持ちの神様であり、現在はスポーツの神というポジションとのこと。南北朝時代、湯島の住人が筋肉方面だけでは寂しいということで頭脳方面の菅原道真を合祀したらしい。この神社、筋肉バカと頭でっかちがルームシェアしているわけである。想像するとやや地獄絵図という気がしないでもない。どちらにとってかは分からんが。
湯島天神・夫婦坂
夫婦坂は坂下から湯島天神へ一番楽に(階段を余り登らずに済む)入れるということで、上下する参拝者が一番多かったりする。なお、この坂は明治維新後に作られたものである。下っての切通坂も(勾配のゆるやかになった現在)一番楽に本郷台地上に行けるってことで平日朝なんかはそちらへ通勤する方々が並んで歩くような状態である。
湯島ハイタウン
夫婦坂向かいにある湯島ハイタウンは昭和40年代中頃から建築が始められた大規模高層マンションの先駆けとなった建物群である。
昭和40年代始めの湯島ハイタウン(森の辺り)
古い写真で見ると(切通坂上のビルからの撮影のようだ)、マンションになる前はどうも森だったようだ。森の奥には旧岩崎邸がある。進駐軍占領時には森にキャノン少佐が庭木を撃つ音がコダマしていたと思われる。
確かこの辺に江戸川乱歩がアルバイトをしていた活版屋があったはずなんだけど、写ってる古い日本家屋がそうだろうか。
切通坂・石川啄木歌碑
切通坂は明治時代には勤め先(朝日新聞)帰りの石川啄木なんかも本郷の下宿(床屋の二階)へトボトボと登っていった道でもある。途中にそのことが書かれた碑もある。すでに市電は走っていたようだが、本郷行き最終は早く終わってしまうので、広小路から歩くしかなかったんだそうだ。なんとなく人の金で湯島でもドンチャンと遊んでそうだが、田舎者で派手好きって辺りを考えると、ここの花街とは合わなかったような気がするんだがどうだろう。
湯島天神入口交差点横の鳥居
坂の途中に湯島天神入口交差点があり左手には大鳥居。さらに、その奥に唐門、続けて神社正面の銅鳥居がある。なんでこっちに周って来たのかと言うと、活魚料理屋・魚十のあった場所を確認するためである。木村東介によると「切通しの坂を登りつめた鳥居の前の角が魚十という大きな料亭で~」とのことなのだが、どっちの前でどっちの角なのかサッパリ分からなかった。で、調べようと古い地図(昭和初期)を見てみたらアッサリと魚十が出ていたのである。
昭和初期の湯島天神周辺地図
というか地図に出るほどの有名店だったのね(梅園町と書かれた文字の上の赤字)。これで境内の角にあるってのが大体分かったのだが、そこからさらに調べてみると元々そこには津の国屋清六、加賀屋半蔵という陰間茶屋があり、魚十は明治二年(1869年)にその土地をゆずりうけて商売を始めたっていうことも分かった。というか、陰間茶屋はやっぱり境内にあったんだな。
湯島天神・切通坂上(昭和初期)
最後にトドメとして出てきたのは上の写真だ(地図と同じく昭和初期)。角っこに鶏卵屋ともう一件何かの店があるが、後ろの大きな建物が魚十である。もうガス燈ではないようだが、店入口の前に電灯のようなボンボリがあるのが分かるだろうか。
しっかし、魚十は“境内”って情報が初めからあったが、陰間茶屋が幕末までモロに境内にあったとは知らなんだ。まぁエライ坊主は籠に乗ってくるんだろうから(なので階段は無理)、顧客的に切通坂側にあるってのは正しいだけど。坊主が籠に揺られながらウキウキウォッチングな気持ちで坂を上がってきたっつーわけだ。
湯島天神・切通坂上(2012年)
轢かれそうになりながら似たようなアングルで撮ってみた。
湯島天神・駐車場
現在、魚十のあった場所は湯島天神の駐車場になっている。その前は湯島プラザホテルという回転式展望台の付いた古くて何やら怪しげなホテルがあった(安かったので外人客が多かったようだ)のだが、写真を撮ろうと思っている内に取り壊されてしまった(2006年頃か)。一度だけ下のイタリアンを利用したことがあるが、店員が早く帰りたいので客を追い出しにかかるというユカイな店だったような記憶がある。ホテルが建てられたときはまだ神社の経営苦しかった頃なんだろう。ホテルの奥にあったマンションはまだ健在である。この辺は神社側が儲かるようになっても、スグに戻せるってもんでもないんだろうな。
富籤禁止からの窮迫、そして土地貸しっていう流れは今もケリが付くこと無く続いているってわけなのだ。ただ、それが湯島天神花街成立に色々と寄与した部分もあるっつーことで、しつこく追ってみたんだけど、どないだ。
湯島天神・表門銅鳥居
湯島天神花街のランドマークであった魚十の場所(だけじゃないが)がハッキリとしたところで、ようやく、その前に花街が広がっていたという神社表門の銅鳥居前まで進むことができた。しかし、イー加減長くなちゃったしキリがいいので、続きは後編にということで宜しく。

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