渋谷 西村總本店「西村フルーツパーラー道玄坂店 」 カフェブックマーク 

今回の店は渋谷である。となれば、新橋絡みで2度(こっちとかそっち)ほどふれて宿題となっていた“渋谷事件”にどうにかしないといけない。が、渋谷事件は資料的なものが山盛りにあり、最近はネット上での情報も結構充実している。しかし、当サイト的にこういった公的に知られている辺りをどうにかしてもしょうがないんで、やや斜めに眺めるといった感じで行こうかと思う。大概の資料は一面的だしね。と言っても、簡単なあらまし程度は説明しないと、よく分からないと思うので、先ずは、その辺りから流して行くことにしよう。

さて、以前に新橋事件ってのは基本は渋谷でのゴタゴタが大本って話をしたんだが、何で渋谷なのかっていうと、そのゴタゴタの相手である旧台湾省民(在日台湾人)のまとめドコロの華僑総本部が宇田川町にポコンとあったからである。
終戦直後の渋谷駅前
上の写真は終戦直後の渋谷駅前(ハチ公口)なんだが、駅回りはほぼ丸焼けで何もなく、コンクリの建物を除いて、掘っ立て小屋しかないのが分かる。旧台湾省民は、この焼け野原の内、宇田川町(道玄坂下から消防署付近まで)周辺を、他の場所(上野とか)での在日朝鮮人・韓国人よろしく、オレたち“戦勝国民”!ってことで、当然の権利のように占拠。そして、“戦勝国民”の特権を利用してご禁制品であるマブネタを扱い、ショボネタがやっとな日本人露天商達(テキヤ)を圧迫。オマケに博打場(「玉ころばし」とか「ビンゴ」等)まで開帳して博徒とも対立。さらに、それを取り締まろうとする警察とも衝突し、自分達にゃ日本の法律は適用されないと、見回りに来る警察官をリンチにするなんて当たり前といった辺りまで増長っぷりはパンパンに。凱旋門をドーンとおっ立て(実際コレは建ったらしい)、「磯野野球しようぜ!」くらいの軽い感じで、(中華民国軍に進駐してもらって)ここらを中国租界にしちゃおうぜ!、何て話が出るような状況だったのだ。その膨れ上がった“租界”の手が新橋まで伸びてきて、松田組とがっぷり四つになったっつーわけなのだ。
ワシントンハイツ
何故渋谷なのかってのは理由がある。まず、渋谷は昭和に入ってから(関東大震災後と言ってもイイ)五島慶太率いる東急が大規模に開発(一時は浅草並の賑わいと言われた百軒店はライバルの堤康次郎が開発)を始めた新しい街だったため、どっしりとココを拠点に土地を押さえる古手のヤクザが居なかったこと。
それに加えて、代々木(旧練兵場)にはアメリカ軍(ワシントンハイツ)、恵比寿(旧射撃場)には英連邦(エビスキャンプ)が挟み込むカタチで進駐し、そこから出てきた彼らがタムロす街として日本人にはやや肩身が狭い場所になってしまったこと。
そして、国木田独歩(渋谷村在住だった)や田山花袋が書いたように、田園である“武蔵野”(当時の世田谷区とか)の端に位置していたため(田園都市線ってのもあるわけで)、農産物等の物資供給地と近かったこと。
最後に、東急の開発によって、その物資を運び込む各種鉄道が充実していたこと。
まぁこんなとこだが“租界”として商売するのに、こんだけ都合のいい場所は無いと言って良いだろうね。
エビスキャンプ
と、あらましを押さえたトコロで“渋谷事件”に入ろう。以前紹介したように旧台湾省民は10台のトラックに分乗し、新橋へと威嚇行動に出たものの、松田組に航空機用機銃を乱射され、這々の体で退却。麻布にある中華民国駐日代表団に泣きついてから(ここで助っ人として渋谷ではない場所から来た台湾人達は解散)、渋谷の華僑総本部へと引き上げることになる。麻布からは渋谷に戻る人間だけなのでトラックは5台程に減っていたようだ(途中で紛争が起こらないよう代表団のジープと乗用車がそれぞれ1台づつ先導していた)。
彼らは明治通りを通って恵比寿方面から渋谷へと向かうわけだが、最短で本部がある宇田川町へと入るには、遺恨有りまくりの渋谷署の前を通らねばならない(当時の渋谷署は恵比寿寄り、並木橋交差点の近くにあった)。渋谷署側も職務上どう見ても“不穏”な外国人達が複数台のトラックに乗って通るのを検問もせずに通すわけには行かない。てな流れで、起こるべくしてというか、この渋谷署の前で“渋谷事件”は勃発するのである。
昭和30年代の渋谷駅前交差点
実は、松田組と近しい万年東一を中心とするぐれん隊(以前説明したように松田義一はぐれん隊上がり)、渋谷のトナリの恵比寿をシマとしていた高橋岩太郎率いる博徒・落合一家、新宿の闇市を仕切っていた尾津組傘下のテキヤ組織・武田組のヤクザ連合軍が、検問で止められるのが格好のお礼参り(プラス渋谷闇市の奪取)のチャンスだと、渋谷署周りの路地に分散して隠れていた(総勢120人以上)のだ。なお、彼らの一部は「“三国人”が警察を襲撃する」と聞かされていて、後にこの話が流布することになる。
昭和30年代のハチ公像
トラックが渋谷署前まで来ると当然のように警官達が停止を命じる。旧台湾省民達は「麻布(駐日代表団)に紛争(新橋でのこと)解決の陳情に言っただけだ」と申し立て、代表団も一緒なので、それ以上強く突っ込めない警官達はしぶしぶ通行を許可する。ただ一台一台止めてキチンと検めることはした。
しかし、代表団のジープと乗用車、それに続くトラック2台は平穏に通り過ぎていったものの、3台目のトラックが警察検めにおもいっきり抵抗。対して警察官が威嚇のため、(銃を上に向けて)空砲を発射する。が、それを見ていたちょっと離れた最後尾のトラックの連中が勘違いをしたのか、警察に対してビシバシと銃撃を始めちゃうのである。これで、警官の一人が胸部を撃たれ(後に死亡)、コレをきっかけに警官と旧台湾省民の間で激しいドンパチが始まっちゃうのだ。(当然ながら旧台湾省民側は警察とヤクザが先に我々を襲撃を行った主張している)。
昭和三十年代の並木橋交差点
このドンパチを合図(?)にヤクザ連が突っ込んでくる。ヤクザは大概手柄はみんな自分がやったと主張するので誰がやったかは不明だが、突っ込みつつの拳銃の乱射で4台目のトラックの運転手が被弾。その場を逃れようと走りだしていたそのトラックは渋谷署の道路向かいの民家に突っ込み横転してしまう。
そのトラックの同胞達を助けようと3台目のトラックから旧台湾省民達が降りてくると、彼らとヤクザ連の間で棍棒、ヤッパ、六角棒やらを武器にした白兵戦がおっ始まるのである(最後尾、5台目のトラックは、テメエが始めたにもかかわらず、激しい銃撃戦を見て横道から逃走)。といっても何しろヤクザ連は本業な上に、基本復員上がりで銃弾の下を散々潜ってきた連中である。しかも人数も違う。あっという間に旧台湾省民達は圧倒され、そこを警察署から出てきた警官達に包囲され、彼らは全員拘束されちゃうのである。
昭和20年代の渋谷駅
いつの間にか、ヤクザ連は居なくなり(負傷者はなし)、結果としては、警官は1名死亡の重傷者1名。旧台湾省民は死亡者7名(即死者は2名)の重軽傷者は30名以上。さらに、そこに居た全員(41名)が「占領行為を侵害する行為を犯したもの」としてGHQ法務局によって起訴され、その中で有罪となった39名が台湾に送還。連合軍の占領中は再入国禁止という、まぁハッキリ言って旧台湾省民側の大惨敗。宇田川町のシマにはGHQの武装兵が出動し、暴発(反撃)を抑えこまれた上、そこからの追放命令。結局は新橋ドコロか、根城の渋谷からも追い出されての幕ということになったわけである。
道玄坂方面から見た渋谷駅(昭和30年代)
もう読んでいる方は気づいていると思うが、警察とヤクザに間には当時の当然の関係として阿吽の呼吸があった。これはアメ横からの在日朝鮮人・韓国人達の追い出しと全く同じ、というか全国的に見られたコンビネーションである。“渋谷事件”ではうまい具合に“三国人”側が先におっ始めてくれたっていうね。
ここからは繰り返しとなるが、こうなった原因はGHQの失政にある。日本の警察組織を武装解除しまくった状態で、旧台湾省民および朝鮮半島出身者に対して「できる限り解放国民として処遇する」という声明(1945年11月)を出し、“治外法権”を容認してしまったのだ。で、結果はいわずもがな。
GHQはその失敗にすぐに気づくのだが、民政局と参謀第2部(G2)の暗闘もあり、後手後手に回り、かと言って治安の悪化はどうにかせにゃって辺りで、警察とヤクザのコンビネーションをコソコソと許容する、といったことになっていくのだ(結局、“三国人”には1946年2月から日本の司法権が適応される)。渋谷事件でも日本人側に逮捕者が居ないのはこういったわけがあるのである。このGHQ側の要請は、早々と警察が表面上は抜けるカタチで段々と反共って要素が強くなっていくわけだけど。
この時に日本各地で起こった抗争に関しては、双方の立場から陰謀論が語られるのだが、ハッキリ言って、こういったGHQのグダグダ、ズルズルが原因なのである。しかし、ヤクザの伸張、そして“在日”と日本人との相互不信という今も尾を引くような問題を残しまくった、といったことではこの失政はエラく高く付いたと言えるだろう。まぁアメリカ的にはどっちでもイイような辺りだったんだろうけどね。
ともかく、こうして渋谷は落合一家と武田組が折半するカタチで押さえるようになり、その隙間でぐれん隊(下北沢グループ)の頭・安藤昇が宇田川町で安藤組(東興業)を立ち上げるってのは、別の話だし、長い話にもなるんで、また渋谷の店を紹介するときにふれることにしよう。
渋谷大和田通り(昭和30年代)
その後の“旧台湾省民”達についても、ふれておかないとマズイよな。
渋谷事件後、華僑総会の主催で亡くなった犠牲者を弔う総会葬が京橋で行われている。当然のように、旧台湾省民の怒りは収まらず、二千人以上集まった葬送の列は、そのままデモ行進となる。
それを受けて中華民国駐日代表団はどのように対応したかというと、基本GHQが出した判決を支持。旧台湾省民達には臨時華僑登録証(パスポート)を渡して慰撫するだけでケリを付けちゃうのだ。
これはアメリカとの関係を~といった部分もあるが、実は中華民国のお偉方は“皇民”だった台湾人達をあんまり、というか積極的に保護するつもりは無かったんである。信用してないっつーかね。そして、彼ら台湾人はそれを分かっていたからこそ、中華民国に忠誠心を示そうと先鋭化したのだが、結局犬死にに終わったというわけなんである。この中華民国の台湾人への“不信”は二・二八事件の大弾圧へと向かっていくというのは侯孝賢の『悲情城市』を見たことがある人はご存知かと思う。
こうして、中華民国に幻滅した旧台湾省民達は、ごく一部が左翼と合流して中国共産党の指導下で活動していくものも出たり(“日本”を糾弾するのはこの辺)、そしてまたごく一部がアンダーグラウンドに残ったり(違法なバイ、賭博を続けるものも居た)もしたが、ほとんどは日本の中で華僑として事を荒立てず生きていくことを選択するのである。
麗郷と龍の髭
渋谷にチョロチョロとある台湾料理の店は、彼ら台湾系華僑の店だったりするのだ。“租界”の残り香なんである。昔は残り香どころか大和田胡同(上にある写真の大和田通りだろうか?)なんていう中華屋通りもあったんだそうだが、上の写真はその生き残り。右が檀一雄が常連だった「麗郷」。左が最近閉店(2014年3月)となってしまった「龍の髭」だ。渋谷じゃ双璧と言われた台湾料理屋なんだけど、片方が失くなってしまったってのは残り香も消えつつあるっていうことなんだろうね。まぁ、これも時代の流れだって言っておけば、どうにかなる。

こんなところで、いいカゲン店の紹介に入るかね。
今まで何故か渋谷を取り上げることがなかったけど、渋谷に馴染みが無いのかというとそういうわけではなく、自分はガッコウで二度通った街だったりする。
もちろん、余り来なくなってしまったというのもあるんだが、コレは現在の“渋谷”という言葉が意味するものの核心部分が自分の思い入れを拒絶するようなもんが有るからだろうと思う。渋谷の発展(開発)の歴史言ってもイイのかな。
ソノことに関しては小林信彦がこう書いている。

パルコの<文化戦略>が成功したのは、<田舎者が考える都会のイメージ>を強引に押しすすめて、ためらわなかった点にある。

西武の進出とそれに対抗しての東京の開発(東急ハンズとか109)が~っつー話だね。でどうなったか。

戦前からの盛り場でもっとも変貌し、人の動く方向まで変わってしまったのは渋谷ではないか。しかも、これほど生活感の匂いを欠いた街も珍しい。不出来なデコレーション・ケーキのような街として原宿とならぶ存在だが、この人口性=生活感のなさを<明るさ>と受け止める世代が多いのも確かだ。

恐らく、自分がこの街に何か微妙な距離(あくまで核心部にナンだけど)を感じるのはこの辺りなんだろう。渋谷と同じく六本木もで生活感の無い街なんだが、この二つの街は何故かIT長者みたいのがやたらと住んでいたり、連中が経営する会社がボロボロとあるトコロでもある。それは何故かというと彼らが日本的“生活感”からの逃亡者だからなのだ。小林信彦が指摘したような渋谷を変貌させた「おいしい生活(消費に文化を乗っけてみました)」の継承者なのである。あーゆーのに<明るさ>を感じちゃう人達なんだね(という意味で連中のマインドからのイノベーションは期待していない)。そういう意味では渋谷に来る中高生のままというか。
残念ながら自分はそういった<明るさ>に思い入れは無いんだな。別に嫌悪までは無いけどね。もちろん渋谷には裏っ側を覗いてみれば“租界”の残り香があったりもするんだけど、世間一般に流布するトコロの表層的な“渋谷”とイマイチ仲良しになれそうにないってのも、まぁ仕方がないって言えば、仕方がないと言うか。

何の話かよー分からなくなってきたが、今回紹介する店は散々ふれてきた宇田川町にある「渋谷西村フルーツパーラー(道玄坂パーラー店)」だ。フルーツパーラーってカフェなのって声はあるだろけど、自分の中ではカフェカテゴリの店なのでイイのである。
この店の歴史はナカナカに古い。創業は明治43年(1910年)というから100年以上の歴史がある店なのだ。といっても創業時は高級果実店。場所も小石川駕籠町というから巣鴨・駒込の方だね。
で、東急が渋谷駅に隣接して東横百貨店を作った昭和9年(1934年)の次の年の昭和10年に渋谷(今も本店がある場所)に進出。恐らく、東急の開発でこれからもっと賑やかになっていくとフンでの進出だったんだろう。場所的にも当時の渋谷の中心だった百軒店に行く途中のベストポジションだ。流石というか、見事に賭は当たって次の年にはフルーツパーラーを開設。ズンズンと店は繁盛して行くと。
昭和20年代の渋谷駅前
さて、古い渋谷の写真に西村の写真が無いか見てみよう。上は昭和27年(1952年)、すでに戦災からの復興が進んできた頃のものだが、ケーブルカーの横っちょの辺りに、周りと比べてちょっと大きめの店舗が見える。
昭和20年代の西村フルーツパーラー
今度のは昭和29年(1954年)。今度は分かりやすく円で囲ってみた。渋谷センター街の入り口が無くね?という人も居るだろうが、センター街の通りが出来るのは昭和30年代に入ってからである。毛糸屋みたいのがある場所が現在のQフロントがある場所ね。ケーブルカーのことが気になる人も居ると思うので、一応ふれておく。なんでも昭和26年から一年半ほどしか稼働してなかったもんで、乗車できるのは子供のみで、店員は12名。駅ビルである東横百貨店(現東急東横店西館)屋上から玉電ビル(現渋谷エクセルホテル東急)を結んでいたんだそうだ。

と、ようやく店の紹介だ。久しぶりに渋谷に来たのはさる展覧会を見に来たからなんだが、人の多さにすっかり疲れて(気分的に)しまい、何かシビれるようにクソ甘いもんを補給したくなり、そういやと駅前に西村フルーツパーラーがあったのを思い出したのだ。場所的に分っかりやすくて大変良いのだ。なお、時期的には秋だっつーことで、実は半年程前の話だったりして(いつ書くかは気分でやってるもんで)。
西村フルーツパーラー外観
店前まで来てもやはり人が多い。駅前ってだけじゃなく、109やBunkamuraナンカに向かうのに一番近い道でもあるしね。渋谷に進出してから場所は変わってないわけだけど。
西村フルーツパーラー・ショーウィンドウ
こういうサンプルを並べたショーウィンドウはワクワク度を高めるためにも無くちゃダメなのだ。最近のオサレスィーツのお店にゃ無いけど。
西村フルーツパーラー・一階
一階の果物売り場に入ると、外の賑わいっぷりとは全く違い(当日は祭りもやっていたのだ)、エライ静かだ。というか客もわずか。まぁ渋谷に来る中高生達がホイホイと買えるような値段じゃないしな。基本贈答用だし。
西村フルーツパーラー・ジュースコーナー
ジュースコーナーもある。コチラもやはりそれなりな値段ですな。
西村フルーツパーラー・階段
フルーツパーラーがあるのは階段を上がっての2階。こちらも混み混みの外と違い、あんまし混んでいない。丁度飯前の時間ってのが良かったようだ。飯前にあま~いもん食うヤツは少ないわな(西村フルーツパーラーはサンドウィッチ、パニーニなんかもある)。
西村フルーツパーラー・窓からの眺め
ということで、駅前が見えるナカナカ良い席に通される。店内を眺めるとやはり年齢層は高め。というか、どこに隠れていたんだっていうナイスミドルカップル(服装は派手目だけど)なんかも居たりして。同伴出勤臭いのもチラホラ。オッサンじゃ女の子連れてくるような店ココしか知らんよね。オレも知らん。
ついでにこちらもお約束のソロ男性も数人。スーツだったり、ミリタリーだったりと明らかに場違いな感じ。甘味処もそうだけど、必ず居るんだよね。パッと来て、パッと出て行くという(というかそれしかないよな)。男も甘いもん食いたいけど、大概一人で入りづらい店ばっかなんだよな。ここはまだハードルが低めと言える。喫茶店っぽさって辺でね。
それにしても、十年ぶりくらいで来たんで、昔と変わってるような、変わってないような。オレが変わったのか。
注文は秋っつーことで、栗ものが充実しているので、そちらをパフェ方面から攻めることにする。果物中心も良いが、こっちは甘いもんで脳みそをシビれさせに来たのである。なめんな。
パフェがやってくるのを待ちながら、この店に勤めていた永山則夫のことをちょっと考える。今の渋谷からすると“永山則夫”って文字面だけでも違和感があるわけだが、“租界”と同様に渋谷の裏っ側のものとして覚えておかないとイケナイものだろうと思う。
しかし、九十年代の援助交際もの小説もそうだったが、何かペカペカした<明るさ>でそういった影の部分が隠される、見えづらくなるってのは悪いことばかりじゃないんだろうなぁって思う。オリみたいなもんが全然残らないってのは、それはそれで街の力なのかもしれない。
西村フルーツパーラー・マロンパフェ
とか、適当なことを考えていると、パフェがドーンとやってくる。なんだ避雷針みたいのは。パフェのレポートはしてもしょうがないよね。正直「甘い」「栗」以外の感想無いし。しかし、そう考えるとパフェって安定感がある食い物だ。
代わりにってことで店自体のレポートをしてみると、店内は内装や店員の制服含め、いい意味で八十年代っぽいというか、渋谷核心部の独特のスピード感とは違った空気感に満ちている。年配者が多いってのも、昔を懐かしんでってのもあるんだろうけど、オアシス的な使い方で~ってのもあるんだろうね。そういった外との違和感を楽しめる不思議なトコロがある店って言えるかもしれない。
この不思議さってのは自分が渋谷に身をおいている時に感じるアンビバレンツな気分と非常に近しいような気がする。そういった意味では渋谷らしくはないが、自分が捉えている渋谷的ではあるってことで、渋谷のことを考えるにはふさわしい店なのかな。と、言ってることも不思議になって来たトコロで以上。

西村總本店「道玄坂フルーツパーラー」
住所:東京都渋谷区宇田川町22-2 西村ビル 2F
電話:03-3476-2002
定休日:基本無休
営業時間:[月~土]10:30~23:00(L.O.22:30)
       [日・祝]10:00~22:30(L.O.22:00)
最寄り駅:渋谷駅

東京都渋谷区宇田川町22−2 西村ビル2F

2024年7月03日・追記
この投稿に関しては、果たして「大和田胡同」(胡同=フウトンと読む)ってのはどこの通りなんだろう?ってのがフワっとしたままだったんですが、別件で食い物方面の文章を漁っていたら、中国文学者で飲食店に関しての著書も多い奥野信太郎の『浮世くずかご』にこんな文章がありました。

ぼくは大和田マーケットによく足を運んだ。ここは渋谷のあっちこっちにあったマーケットの中でも、もっとも雑然としていて、人間のうごきが一番生き生きしていたからである。少し大げさにいうならば中国の大都市のどこかの裏町のような、うす気味のわるさと人間のむきだしの欲望とが、表裏一体をなしているような、そんな場所であった。
このマーケットのどん尻が、また大和田胡同と、中国めかした名称の小路になっていて、大陸からの引き上げ者たちが、それぞれ商売をやっていた。

なるほど、これで場所が分かりました。大和田マーケットは現在では渋谷マークシティ南に沿ってあるウェーブ通り(ナンダこの名前は)~駅側から少し入った場所にあったマーケットです。下の画像、赤く色を付けたところがそれ。ややこしいんですが、駅側のゴチャっとした青色の部分はまた別のマーケット。奥野信太郎はどうもひとつのものと認識していたようですね。渋谷はデカい組織が無いのでこういう小さなマーケットが複数あったんですな。恐らくですが、親分の自宅が大和田町にあった武田組(テキヤ系)の影響が大きい場所だったと思われます。
マークシティ含むその後の再開発で、区画自体が変わっているので、今で言うと細かくどこってのは大変むずかしいんですが、飲食店が集まっているザ・レンガビルの辺りでしょうか。

大和田マーケット

が、随分ザックリした情報なんで、何か補強するものはないもんかなと思いながら忘れかけていた頃に、同じく食い物方面を漁っていたところ、50年代の情報誌に以下のような文章がありました。

渋谷大和田胡同のロゴスキーは戦後、あの路地ですっかり名を売り、いまや日本橋広瀬ビル地階にまで進出した。

ロゴスキーは現在は銀座で営むロシア料理では老舗といって良い店なんですが、HPでも“小さな店を渋谷で始めました”とあり、歴史が語られているページ内には~

昭和26年3月18日、主人はマーケットの人通りまれな四等地であったが、 間口一間半、奥行き一間という店を、かのロゴジンスキーを短くした 「ロゴスキー」という名で開店することになった。

~だとか。この“マーケット”が大和田マーケットだったと。上記の情報誌をよく見てみたら、広告もありました。こちらにも思いっきり“渋谷大和田胡同内”ってありますね。

ロゴスキー・広告

マーケットというのは、闇市の露天業者や、仕切りのヤクザ組織が組合を作る等をして、長屋的な構造物を作ることで、露天から脱却した(させた)まとまった市場(連鎖市場)形式のことで、まぁ闇市の最終形態なんですが、ロゴスキーが創業した昭和26年(1951年)の頃には、その整理が進んでいました。各所当局が邪魔だよってのもあるんですが、物資が安定してプロが普通に商売するようになると、闇市くずれの素人に毛の生えた程度の商売はキビシクなってしまったんですね。
大和田マーケットは場所が中途半端な所だったのが幸いし、早急な整理からは逃れられたものの、商売の立て直しとして、プロ仕様の真っ当な商売をする(してくれる)店子ってのを求めるようになり、それに合致したのが、ロゴスキーのような大陸からの引き揚げ組だったようです。餃子の珉珉のルーツとなる店も最初期は大和田マーケットから出発しているようです。元々中華色の強かった渋谷はそちらからの引き揚げ組が開業しやすいような所があったんでしょう。珉珉は後に恋文横丁の方(麗郷の向かい辺り)に移転するのですが、そちらも餃子屋が集まりギョーザ横丁とも呼ばれていたとか。

ロゴスキーに関しては以前資料として神保町の洋菓子店「柏水堂」だったり、本郷の羊羹・藤村の時に使用した本『味なもの』(1954年発行)に一項があり、ロゴスキーのHPにもその内容が紹介されているのですが、その項目のタイトルは「元中佐の帝政料理」。創業者が陸士出身の主計中佐ということでもよく知られた店だったんですね。そういった関係でロゴスキーは元軍関係者が出していた出版物に広告をよく出していたようなんですが、その中にズバリなものがありました。

大和田胡同内・成吉思汗

成吉思汗は『味なもの』にも「近所で義弟がジンギスカン焼きの店を出している。」とあります。この場合の“ジンギスカン焼き”は北海道のそれではなく、満州の羊肉料理です(上記の珉珉も正式名称は「珉珉羊肉館」)。どうも、この頃には大和田マーケットは取り壊されていたようですが、通り全体を「大和田胡同」呼ぶようになっていたと。で、ギョーザ横丁よろしく、こちらにも同系統の店が集まってきて通りだけではなく、周辺をゆるく含むという形になっていったよう。実際、後に出た本の中には道玄坂へと抜ける大和田通り(プラザ通りとかセルリアンタワー通りとかになっている道)も「大和田胡同」と紹介しているものもあったり。そういえば、こっちの通りには腸詰めで有名な居酒屋「細雪」もありました(結構前に閉店)し、珉珉も閉店前の店はこちら側に戻って来ていました。

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