殿山泰司「日本女地図」 成行古書案内

日本女地図

殿山泰司という役者に対しては妙な思い入れのようなものがある。
なにしろ脇役として腐るほど作品に出ている人なので、姿形の記憶というものは物心つかないころからあったような気がするが、カッチリと脳内にこの役者のフォルダが作られたのは、小学校で何度か見ることになった、一般で上映されることのない映画群に、必ずと言っていいくらい出演していたからだ。
自分の育ったのは北関東の端っこ。実は北関東は東日本の中で最も同和問題が根強く残ってしまった地域であり、イワユル同和教育ってのが結構熱心に行われる。で、その内容ってのは主にその教育関係者の講演及び映画の鑑賞なのだが、この後者の同和啓蒙映画ってのに殿山泰司が出ていたっつーわけ。
正直に言うと、それらの映画内容ってのは何かストーリーが紋切り型であったような…程度しか覚えておらず、そこからして果たして同和教育的に有効であったのかどうかも不明ってのはさておき、まだ一人でヨッチらと映画館へ行くことも無い~つまり構えて映画を見るっていう習慣が付く以前であることが作用したのかもしれないが、引っ込み思案だが妙に人を落ち着かせる優しい声、ズル剥けたとしか言いようのない頭から放たれる胡散臭さ、それを裏打ちするスポンと後ろの方へ吹き抜けている開けっぴろげな明るさにすっかりと魅了されてしまったというわけである。なお、この啓蒙映画、ストーリーは…はと書いたが、殿山泰司の役柄は常に主人公を見守る役だったというのはハッキリと記憶している。そういった辺りでの憧憬ってのが強かったんじゃないかと思う。

長じてこの役者が、実は文章書きとしてもソレナリのものだという評判を聞くわけだが、実際にこれは読んでおかんとな~となったのは、すでにこの役者が亡くなった後。雑誌「プレイボーイ」で開高健(殿山と同年に亡くなっている)が連載していた人生相談『風に訊け』をまとめた単行本をパラパラとめくっていると「殿山泰司の『日本女地図』は大変な傑作ではないでしょうか」という相談というか質問に~

『日本女地図』は、日本唯一といってもよいナンセンス文学の傑作である。英語でいえば、one and only といってよろしい。ナンセンスというセンスを、本当に上質に書くのは難しい。しかし、殿山泰司さんのあの作品は、群を抜いている。あとは野暮なやつらが気がつかないで気どって書いているだけで、読むに耐えない。

~と答えている文章を目にしてである。テメエの選球眼じゃなくて人の評価かよ!とお思いでしょうが、当時“開高健”の威力ってカナリのもんだったんですよ。
まぁそれはともかく、こうして読もうと思い立ち、本屋へ行ったものの並んでないんである。で、近隣の古本屋も覗いてみるが同じく。始めに出たカッパ・ブックス版は昭和44年に出版。後に角川文庫から再出版しているが、これも昭和58年(解説の糸井重里のプッシュで出ることになったらしい。ケっ!)の話で、宗教本と堺屋太一が売れ筋の本棚にズルリと並んいるバカヤロ片田舎(旧いがらしみきお的表現)の本屋・古本屋ではどうしようもなく、神保町に出た時に、今はなきサブカル系古本屋を漁って漸くカッパ・ブックス版の方を見っけたわけである。
日本女地図
というわけで、手物にあるカッパ・ブックス版『日本女地図』。なにしろ当時のカッパ・ブックスであるからして、結構数は出ているので(初版と5日違いで7版である)値段はそれほどでもなかった。まぁ風呂で読んだのかっていうシミが入っていて状態もあんまり宜しくなかったのもあるんだが、その方が遠慮しなくてイイので好きだ。
懐かしき河童のマークも鮮やかに、裏表紙にはお約束といった感じで、盟友でもある映画監督・新藤兼人の推薦文。

演技研究の苦労でハゲたのか、女性研究の苦労でハゲたのか、その理由は、彼をよく知る物のみがよく知っている。

これに加えてカバー裏は五味康祐と樋口清之というそれぞれの道の泰斗が同じく推薦文を寄せ、スケベ心75パーセント位で購入したと思われる当時の読者のハートをガッシリ。モチロン古本で購入した自分も。

てな感じで読み始めたのだが、まず著者によってこれは如何なる蛸なる本であるかというまえがきがある。ここまで読んでくれた方も早くどんな本なのかイイカゲン提示せえよと頭ズル剥ける思い出お待ちかと思いますので、ここで殿山泰司自身によるマニフェストを御覧いただきたい。

仕事やその他でニッポン中をふらふらと歩きまわり、オノレのセガレを叱咤激励し、数多くの女性諸君とオネンネしてみて、その結果、ひとつの現象に気がついたのである。それはオンナというのは、生まれ育った土地によって、アソコがすごくちがうということである。
どうしてそんなに地域差があるのか。オレは学歴もなく学問もない男であるが、歴史学、考古学、人類学、民俗学、医学、法医学、栄養学、気象学、地理学、化学などを、猛然と勉強することによって、気候、食べ物、地勢、血統などが、女のアソコを特色づけていることをつきとめたのである。つまり自然が人体にあたえた深い深い影響なのである。恐ろしいものですね、ミナサン。この本は、そうした四十年間のオレの研究成果の集大成なのである。

分かりましたか、ミナサン。役者・殿山泰司に対して抱いていた憧憬を、往年のシュワルツェネッガー並に薙ぎ倒してくれるこの文章への自分の困惑が。この時点では、上で書いたように他のエッセイ等の軽く読める辺りは未見なんである。
と、何やら暗夜行路気味に本文に入っていったわけだが、開高健が言うようにホントーにナンセンス極まりないので、ネタの味の濃さはなんのそのどんどんパクパクと口に入れてもモタれない。あっという間に困惑なんぞは遥かイスカンダルの彼方へと去り、こちらも本を手に「豊年だ!豊年だ!」と叫びつつ、本当にどうでもよくなってしまうのだった。

例えば岩手県の冒頭~

岩手は純朴な国である。食べ物も純朴、そして女も純朴である。石川啄木、宮沢賢治を生んだところだ。オレは恥ずかしい。世の濁流の中ばかりを歩き、ハレンチで厚顔無恥なるオレに、岩手を語る資格があるだろうか。

ナルホドこんな本書いてるけど反省することもあるのだなと思ってすぐ次の文章がコレである。

岩手の女は下ツキである、という定説がある。オレは十年ばかりまえ、鉛温泉へ仕事で行ったとき、花巻は流出して芸者と遊んだ。そのときに、下ツキであれば背後位でと思ってたら、べつにそんなことをしなくてもよかった。正常位でことたりたのである。

ドウデモよくなるというのが良くお分かりになるかと思う。こういうのが47都道府県分シッカリとあるんである。何しろナンセンスものなのでコレはこうで~という解説をしてもしょうがないので好きな所をピックアップするだけでお茶の濁させてもらうが、幾つかある「タイジ・トノヤマ法則」とか言って何故か数式が出てくるくだりなどはサイコーである。
石川県の項、統計年鑑を見ると結核患者が多く、女性は当然ソチラ方面には向かないため男は欲求不満になってオナニーをすることになる、という流れから~

この県からは、西田幾多郎や鈴木大拙などの大哲学者がでている。なぜONANIの多い県から哲学者が生まれるのか。これを解明するためには、「ONANIと想像力に関するタイジ・トノヤマの法則」なるものを知らなければならない。これを式であらわすと、

$$I=k \frac{M}{W}\ $$
となる。ここではIはイマジネーション、つまり想像力のこと。この想像力がなければ、「絶対矛盾の自己同一」だとか、大乗仏教の空観である「色即是空」などの深遠な哲理はわからない。kは定数である。Mはマスターベーションの回数。Wは人間の仕事量を表す。この式でおわかりのごとく、想像力はマスの回数に比例し、仕事量の反比例する。

~のように今のオタク方面で通用しそうな法則が提示されたりするのだ。タマランですな。なお、上の数式を表示するためだけに、このサイトにそれ用のプラグインを導入しました。
他、映画好きとしては同業者の名前が結構出てくるのが面白い。会津出身の佐藤慶との会話で終わってしまう福島県の項もよいのだが、長野県が教育県のため女性の貞操観念が強く、口説くのが大変難しいという流れから、大島渚の映画で同県に行ったとき、戸浦六宏をお供に一杯飲み屋でそのことを愚痴っていると、地元の老人から御柱祭の時期なら諸事情により(全部書くのは面倒だから実際に読んでくれ)大丈夫と言われて~

なるほどそうですか、いやァいいことを聞いたな。 それでそのお祭りはいつですか。そうだな、今度は昭和五十年だなァ。冗談じゃないよオジイサン、しっかりしてくれよ、それまでにドコかで腹上死でもしたらどうしてくれるんだい。戸浦六宏が口の中でモゴモゴ言っているから、なんだと思ってよく聞いてみたら、俺は間に合うな、とつぶやいていやがる。畜生!!

では、自分の出身県である埼玉はどうなんだと見てみると、副題に「衛星都市における没個性化現象」とあり~

特色のある風土からは、特色のある女が生まれるというのが、オレの持論である。残念ながら、埼玉県には、どうもこれといった特色がない。東京のすぐ隣りなのに、ひどく田舎臭い県でもある。田舎臭いといっても、ほんとうの田舎臭さは、埼玉にはない。どうも困ったもんだ。なんとも書きにくい。埼玉県なんてなけりゃいいんだ。

~と僅か1ページで終わっちゃってるんである。『翔んで埼玉』かよ!また、沖縄復帰前なので沖縄県の項だけ(両親離婚後の実母の話が出てくる兵庫もヤヤ)センチメンタルになってしまっているのも、時代背景を知る上では別の意味でオモシロイ。
日本女地図
殿山泰司は大正4年(1915年)の神戸の産まれだが、両親の離婚によって、少年期を後に有名店となる銀座のおでん屋「お多幸」の跡取りとして過ごしている。落語よろしく身を崩すのが前もってアキラカな出自なわけである(実際、役者になる形で持ち崩して跡目は父の死後、弟に譲っている)。しかも、離婚後に父の愛人が義母となって始めた店での跡取りだから、通り一遍に育つわけがない。
そして、ギリギリ動乱前だから、大正デモクラシーから震災復興後の東京のモダンだったり退廃的だったりした空気をタップリ吸っているはずだ。出自と時代、この二点が、立身出世や自己表現としてゲージュツを始める不純な奴らがねだっても身に付けられないような“軽さ”を自然に獲得することが出来たミソというわけである。開高健の言う“野暮”にはならず済んだと。
こういった育ちにもかかわらず、戦争では中国戦線を転々として辛酸をナメ、復員してくると店を継いだはずの弟(血の繋がった唯一の家族)は、応召学徒としてビルマに出征して、終戦の僅か一週間前に戦死してしまっていたのを知る(今のお多幸は父親の弟子筋が継いだとか、なんとか)。
こういった辺りが、あなあきい(アナーキー)とも自身が称する単なる“軽さ”だけではない、良い居酒屋の臓物の煮込みのような、味の奥行きと複雑さで魅了するような役者になったとうことなのだろう。そして、それは『日本女地図』のように書かれた作品も同様である。

殿山泰司のカキモノはどうも田中小実昌だったり色川武大だったりの関係性や、ジャズあるいはミステリーといったサブカルアングルで語られることが多いのだが、どうも鼻につくというか、そんなテメエが大好きみたいなキモい話の出汁として使われるパターンが多いんですな、コレが。
そういった点でも自分は『日本女地図』。そのカッパ・ブックス版に最初に出会えたというのは幸運だった。解説・糸井重里じゃあな。これを読んでいただいた方も、出来ればカッパ・ブックス版を入手していただき、余計なカキガラのついていない素材のみの素晴らしさを味わってもらいたいもんである。
正直今回コレのために読み返してみて、流石に今読むと女性への見方とか受け入れられない部分がアルんじゃなかろうかと思っていたんだけど、サにあらず。『好色一代男』同様に実は“性”にはフォーカスは合っていないんですよね。あくまで“人間”のキテレツさの方に、なので今読んでも全くクドさは無いという。正に「ナンセンス文学の傑作」なわけですね。どっちかゆうとカタカナで「ケッサク!」と言いたい。

というわけで、最後は秋田県の項、最後のくだりでお別れしたい。殿山作品でお約束の「クソジイイ」もあるんでね。

小野小町も一生処女で通したんだが、彼女の歌から推察すると、どうも未練をば残しとるようだな。
それで死ぬときの呪いをこめて、秋田に生まれる美人のアソコは大きくなるなッ、ぐあいもよくなるなッ、と美人の神様が、なんかの神に祈ったんだ。オレは不思議に思うんだが、自分を相手にしてこなかった男たちをどうして恨まなかったのかね。男からチンポがなくなれッ、とかなんとかさ。これがわからないよ。女の気持ちはまったく複雑だ。
秋田美人よ、アソコのぐあいがよくないのくらい気にするな、胸を張って歩いて行けよ。あるげだってどこさゆげばええだァ、クソジイイ。

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