堂々巡り、めくらまし。そして、『シャッターアイランド』

シャッターアイランド
マーティン・スコセッシの『シャッターアイランド』を観て、松本俊夫の劇映画『ドグラ・マグラ』のリメイクかと思ってしまった。冒頭、ベン・キングスレー(ハゲ)が桂枝雀、マックス・フォン・シドー(白髯)が室田日出男に見え、もしやこの結末……と考えていたところ、まあ見事にアウトラインがはまってしまったので、ちょっと驚いた。

もちろん『シャッターアイランド』には、先祖返りだとか無残絵だとかはたまた胎児の夢なんてチャカポコなギミックは出てこないし、知らない人にいるかもしれないので(いないと思うけど)念を押しておくが、『ドグラ・マグラ』のリメイクではない。

(無論、この映画には原作があるってのは重々承知。オチが袋綴じになっているらしいが、原作小説とその映画化作品って別物だから、この際、原作については何も触れない。読んでないし)

本作品のストーリーの源流に、「追う者がいつしか追われる者に」というのが見て取れる。このテーマを扱った過去の映画を挙げると、アレックス・コックスの『デス&コンパス』、アラン・コルノーの『インド夜想曲』、アラン・パーカーの『エンゼル・ハート』など枚挙に暇がない。一人称ミステリの体裁そのものがミステリのギミックであり、結末部分に至るころには、ミステリそのものの範疇を超え、アイデンティティクライシスに陥って悲劇を迎えるのである。欺瞞と妄執の果ての自我崩壊であり、時にカタストロフも辞さないこの展開は、ミステリというよりはむしろノワールの特長であろう。

映画版『ドグラ・マグラ』は、戦前に出版された原作の悪性ウィルス熱のような異形さを、実験映画の雄・松本俊夫が古いお化け屋敷のからくりめいた手法で、実に淡々と描いた作品だった。けれん味たっぷりなのに、感情移入を拒否した冷徹な展開は、演出側の冷笑がスクリーンの向こうに垣間見えるようだった。

どちらも共通するのが、舞台が精神病院で、かつ、犯罪者の心神喪失を克服させ正常な状態で犯した罪を認めさせようとする点だ。それをミステリ風味でたっぷり味つけし、フラッシュバックの多用、また迷路のような廃墟という舞台仕掛けで、観客たちを「堂々巡り、めくらまし」の状態にずるずると引き込んでいく。そして、主人公を待ち受ける無間地獄の恐ろしい闇。永遠に続く正常と狂気のメビウスの輪。

『ドグラ・マグラ』との共通項を踏まえながら、本作品を観ていくと、むしろ本当の見所はラストにある。そこに到るまでのドラマが冗長だが、決着のシーンはそれまでの重苦しい陰鬱さが嘘のようで、清冽で美しい。夢から醒めた時ほど、現実の苛酷さを思い知らされるのは、狂熱から立ち直ったキャストならずとも誰しもが感ずるところだからだ。

 

 

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  1. ピンバック: 黄昏のシネマハウス

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