万惣フルーツパーラーと須田町交差点

そろそろスギ花粉がやってくるなぁと3月の始め、花粉よりも先にびっくりするような話が飛び込んできました。東京を代表する老舗果物店であり、フルーツパーラーとしても多くの人に愛されている「万惣」が全店舗営業休止するというニュースです。慌ててホームページへ行き、トップページの休業についてのお知らせをを見ると以下のようにありました。

弊社では、昨年3月の東日本大震災により、本店ビルも多大の影響を受けてしまいました。
昭和56年以前の旧耐震基準で建築された当本店ビルは「中央通り」・「靖国通り」に面していますが、昨年秋に制定された東京都の耐震化施策「東京における緊急輸送道路、沿道建築物の耐震化を推進する条例」により両道路共、指定幹線道路となりました。
弊社としてもその対策を迫られ、専門家の耐震診断による耐震性の確認を行った結果は建物の耐震強化工事では不十分であり、早晩、建物自体の取り壊しは避けられないという予想外のものとなりました。
これまで高級果実の販売を主軸とした堅実経営に徹してまいりましたが、最近の厳しい経済環境の中で、短期間でビルの建替工事を行い経営を継続できるほどの状況にはありません。
このため、やむをえず本年3月24日(土曜日)をもちまして果物の販売・フルーツパーラーの営業を全店で休止することを決定した次第であります。
創業以来今日まで、格別のご愛顧、お引き立てを賜りながら、ご不便・ご迷惑をおかけする事態に至りましたことは、まことに申し訳ありません。
何とぞ、事情ご賢察の上、ご寛恕賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
ながいあいだ、まことにありがとうございました。ここに深く感謝申し上げます。

万惣の無念というか、それ以上の切歯扼腕のようなものが感じられる文章なわけですが、まさかこんな形で震災の影響が出てくるとは思いませんでした。現在営業休止間近ということで、その前に有名なホットケーキを食べてみようという人達がわらわらと訪れ、神田須田町の本店は連日超満員(これで馴染みだった人達が入りづらくなっているようで)。通常よりも早くオーダーストップしたりという状況のようです。恐らく休止の日である3月24日までこのような状況は変わらないでしょう。いつかこのサイトでも取り上げようと思っていたお店なわけですが、こういう異常な状態を店の記憶として留めるのは如何なものかという判断から、ここに来ての店舗自体の紹介は諦めることにしました。あくまで“営業の休止”なわけですから、それは再開した時に取って置くことにしましょう。
では、今回の休止にあたり店舗の紹介とは別の形で取り上げることができないかと、本店が面する須田町交差点とその周辺の歴史を振り返りつつ、万惣のそれにも触れていくという形を取ることにしました。それで当サイト的惜別になれば、ということで。

さて、万惣の創業は弘化3年(1846年)。孝明天皇が即位したのがこの年で、鎖国政策を取る日本の沿岸にちょろちょろと外国船が現れ、幕末の動乱へ向けて世相がだんだんときな臭くなってくる頃です。江戸期の神田には大衆割烹「大越」の紹介の時に幕府御用市場だった神田市場があったということをふれましたが、新潟から出てきてこの市場で修行していた初代は、この年に独立する何らかのチャンスが訪れ万惣を創業したようです。想像ですが、この年の始めに小石川から築地にかけての火事があったようなので、それで市場に空きが出来たといった辺りなのかもしれません。というわけで当時の地図を見てみましょう。
江戸時代の神田須田町周辺
現在万世場がある辺りに見付門(江戸城外郭としての監視所)である筋違橋門があり、この前に火除け地でもある八ッ小路という広場があるのが分かると思います。筋違というのは江戸城から上野寛永寺へ向かう御成道と本郷方面へ向かう中山道と日光御成道をかねる道が交差する場所ということでこう呼ばれるようになったようです。そして八ッ小路はそれを含めての8つの道が集まる場所という意味だそう。通常見付門は治安上の理由から夜になると閉じたりするのですが、筋違橋門は交通量が多いことから開けっ放しで、八ッ小路には通る人々を相手にする出店も並び江戸でも一二を争う繁華な場所でした。江戸名所図会の集大成とも言える歌川広重の「名所江戸百景」の中の一景となった場所でもあります。この交通の要所が須田町交差点の前身だったと言って良いでしょう。
創業当時から場所は変わっていないというのを信じますと、恐らく万惣は赤い丸を付けた辺りかと思われます。
淡路町からの須田町(明治20年頃)
上の写真は明治中期、淡路町から須田町方面を撮した写真ですが、“江戸”の生活は明治中期まで変わらなかったと言われるように建物はほぼ日本式家屋です。違いがあるとすると明治14年に幹線道路や運河に面した建物は火に強い煉瓦造・石造・蔵造に建て替えろという東京防火令が出て、当てはまる建物の多くが江戸期から奨励され建替えが容易だった蔵造に変わっていることでしょうか。今度の条例のようなことは明治初期から行われていたわけです。この防火令で明治期の東京の景色はおそらく江戸の頃よりも黒っぽい印象になっているはずです。
さらに写真を細かく見ますと神田川沿いに立つ洋館は現在昌平橋近くにある神田郵便局の前身である万世橋郵便局で、当時は後に万世橋駅が出来る旧交通博物館の辺りにあったのが分かります。その前にはレールがあり馬車鉄道が走っているのも分かりますが、この馬車鉄道は日本橋から万世橋を経て、上野から浅草までを走っていました。また、埼玉・群馬方面へ向かう乗合馬車もここから出ていたようです。写真には出ていない郵便局の左に万世橋があるのですが、ややこしいことに郵便局の裏に見える橋は江戸期には上流の方にあった昌平橋で、洪水で流されてこの時期だけ万世橋の下流にありました。大名屋敷があった連雀町(現在、神田やぶそば、甘味処竹むら、鳥すきぼたんなどが並ぶ神田食味街)は町家に変わっていますが、区画自体は江戸の頃から大きくは変わっていないようですね。
明治に変わっても交通の要所という地位は変わらず、更に神田市場に加えてその周辺には問屋街も形成され多種多様な物資を扱う場所として更に人が集まるようになり、須田町周辺は“繁華街”となっていくわけです。この時期に万惣はそういう状況を背景に当時の上流階級をお得意先として商売を拡大していったようです。そして明治43年には果物業界で初めて宮内庁御用達となります。
明治42年頃の神田須田町
その明治後期になると馬車鉄道が電車に変わり、それと共に多少の道路拡張などが行われてます。東京に市街電車が走り始めたのは明治36年ですが、上の地図の明治42年にはすでにそれなりの交通網が出来ているのが分かりますね。そして、この頃にようやく須田町に交差点と呼んでいい場所が生まれます。この市電の乗り換えターミナルになった“須田町交差点”には東京全域から人が集まって来るようになるのです。

これに加え、明治45年にはこの須田町交差点隣で中央線のターミナルである万世橋駅が営業を開始します。地図では万世橋は現在の場所に架け替えられ、昌平橋を元の上流の位置に戻し、そして郵便局は向いの連雀町に移動しています。こうして出来たスペースに万世橋駅を建設されるのです。御茶ノ水から万世橋への延長工事も進められているのが分かりますね。
万世橋駅(手前が須田町交差点)
こうして市電の乗り換えターミナルであり中央線ターミナルでもある万世橋駅への乗り換え地にもなった須田町交差点には更に人が押し寄せるようになり、それを当て込む形で周辺には映画館や飲食店などがドシドシと開店、大正期にはその繁栄っぷりが最盛期を迎えることになります(大正8年に万世橋~東京駅間が開通し、万世橋駅の方のターミナルとしての役割は終わるのですが)。
神田須田町万世橋付近の関東大震災被害
そんな大正末にやってくるのが関東大震災です。須田町交差点周辺も川向こうの神田佐久間町一郭を除きほぼ全域が焼け野原となり、辰野金吾の設計による豪奢な赤煉瓦造りだった万世橋駅舎も焼失してしまいます。関東大震災は上の写真のようにそれまで“江戸”を引き継ぎ(「引きずり」と言った方がいいかもしれません)つつ発展してきた街が地震とそれに伴う火災で灰燼と化し、否が応にも“東京”として新しく生まれ変わらなくてはならなくなるという大きな転換点となるわけですが、こうして登場するのが後藤新平の震災復興事業計画です。
帝都復興区画整理図(須田町周辺)
上の図は昭和5年に完成というか終了することになる復興事業による区画整理図になります。斜線が付いているのが今までの道路で、黒くなっているのが区画整理で新しく道路になった部分です。後藤新平の復興事業は大地主でもある政財界の実力者の横槍によって縮小を余儀なくされたため、焼失地域を中心に行われることになるのですが、被害の大きかった須田町周辺では大鉈が振るわれたのが分かります。注目すべき大きな変化は区画整理によって南北を貫く中央通りと、東西を貫く靖国通り(当初の名は大正通り)という幹線道路が出来たことです。これによって須田町交差点が万世橋駅の横のオレンジ星の位置から現交差点の位置であるグリーン星に移動します。このことで、すでに秋葉原駅と神田駅が出来てターミナルとしての役割を終えていた万世橋駅は廃止へと向かっていくことになるのですが、幹線十字路となったことで市電最大級の乗り換えターミナルとなった須田町交差点はむしろ重要度が増すことになるのです。
そして、この区画整理によって現本店所在地でもあるその須田町交差点角地に万惣が店を構えることになります。元々この場所にあったということで割り当て的なことで自動的にこの場所になったのか、商売を広げるために確保したのか詳細は不明ですが、このことで果物屋という枠を超えた私たちのよく知る「万惣」が生まれることになります。
昭和始め頃の万惣
震災後、街は復興事業の変化と共に火災に強い鉄筋コンクリート造りのモダンな建物が並ぶこととなり、それに合わせる形で人々の消費の方向も変化していきます。当時の万惣の経営者はその空気を鋭く感じて果物屋という商売を生かしたフルーツパーラーを始めることにしたのでしょう。万惣がフルーツパーラーを始めたのは昭和2年。このことから復興事業終了前の昭和5年前に須田町交差点の移動は終わっていたと思われます。上の写真がその頃の外観。池波正太郎が父と来てその後通ったのはこの店舗の頃ですね。一階は果物店、上がフルーツパーラーになっているのはこの頃からなのが分かります。入り口にランチ「¥60」とありますが、これは“円”でなく“銭”です。
ちなみに日本でフルーツパーラーという形式の店舗を始めたのは同じく老舗果物屋である千疋屋。外国人に果物を売るとそのまま店頭で立ち食いをするので、座って食べられるスペースを作ったのがフルーツパーラーの始まりだそうです。
神田シネマパレス
当時須田町交差点と同じように市電乗り換えターミナルだった神田神保町の間には映画館が大小合わせて9館ほどもあったそうです。それだけ人が集まってくる街だったということですね。上の写真は池波正太郎が万惣でホットケーキを食べた後に飛び込んだという神田シネマパレス。現在の神田郵便局の向い辺りにあったこの映画館は黒澤明の兄・須田貞明が弁士を務めていたとこでも知られています。
フルーツパーラー万惣はこのような神田地域の繁栄と共に“東京”の名店舗としての確固たる地位を築いていったわけです。
占領下の須田町交差点
そんなフルーツパーラー万惣と須田町交差点に再び大きな変化が訪れるのは戦後。戦災復興と東京オリンピックに向けての都市改造での地下鉄網拡充と自動車の増加による運行の困難などにより赤字運営となった都電(戦時中の昭和18年、組織改編により市電は都電に)が廃止となってしまうのです(荒川線のみ存続)。当然ながら都電廃止で神田地域に来る(というか寄る)人の数は激減し、映画館はどんどんと廃館していきます。路面を走る市電では乗り換え時に近くの店舗へという人の流れもありますが、車ではどこか駐車場に止めなければなりませんし、地下鉄ではわざわざ神田駅を降りて上がって来なければなりません(余談となりますが、地下鉄神田駅から市電ターミナルである須田町交差点に出るために作られた地下通路にあったのが2011年1月に営業終了した須田町ストアです)。こうして、神保町のようにわざわざ訪れる必要がある特殊性もない須田町交差点は繁華街としての地位を喪失してしまうのです。
万惣の経営的にも大きな出来事だったと思います。万惣も地元の人を除いて、ちょっと寄る店では無くなってしまったわけですから(その価値がある店とは言え)。実際、今の須田町交差点は車ばかりで歩いている人をあまり見ないような場所になってしまってるんですよね。個人的推測ではありますが、このことが今回休止に至った遠因である部分もあるのではないでしょうか。
万惣と須田町交差点
その後ビル化してからの万惣は皆が知っている万惣なわけですから、ふれる必要は無いですよね。やっぱり池波正太郎のエッセイで知ったという人の方が多いんでしょうか。
というわけで、万惣と須田町交差点の歴史をざっと振り返ってきましたが、関東大震災後の区画整理で生まれた「万惣」が東日本大震災の影響で休止しようとしているということを、歴史の皮肉を感じつつまとめていくこととなりました。以上となりますが、今回の休止からまた営業を再開した時に今度は店舗紹介という形で万惣を取り上げたいと思っておりますので、その時はどうぞ宜しくお願いします。では、それがあまり遠い日ではないことを祈りつつ筆を置くことにしましょう。

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