「湯島天神」後編 ニッポン花街・遊郭跡めぐり

松川二郎著『全國花街めぐり』によれば、花街(花柳界)にはそこで遊ぶ料金(玉代)と芸妓への課税率によって大雑把なランク(等級)のようなものがあったようなんだけど、湯島天神は大体3級(の甲乙で甲)といった辺りだったようだ。ただ、同時期の他の本での自己申告では2級と答えてたりしてその辺はホント曖昧だったりする。書いた松川二郎も順番オカシクねと、あくまで「参考」としている。どうも大正成金時代を経て全体的に料金が上がってしまってゴチャゴチャになっちゃったってのもあるようなんだね。さらに料金体系もドンドンと複雑になって行ってと。その辺を料金が安く、ややこしくないカフェーやらバーに突っ込まれた後、恐慌からの浜口内閣の緊縮政策で値段をガンガン下げざるを得ないっていう状況になっていくわけだ。この料金やらの体系とその推移ってのは自分もまだ良く分かってなかったりするので、何れまとめんとイカンなぁって思ってるんだけど~
昭和初期の湯島天神
まずは目の前の湯島天神花街である。当然ながら今回も観光的なものはすっ飛ばさせてもらうが、かと言ってイキナリ花街跡に突入してもイメージが取りづらいだろうと思うので、まずは花街が現役バリバリだった頃の昭和9年(1934年)の本郷区(今の文京区の東側)地図からの湯島天神周辺を見てもらおうと思う。この地図、火災保険特殊地図(火保図)といい、主に火災保険料率を決めるために保険会社の依頼で作られた(木造が多い当時火事は大事だからね)見た目は今の住宅地図に近いもの。違いは住宅の建築構造(木造かコンクリートかみたいな)とか消火栓の位置なんかがハッキリ分かる辺り。まぁ保険屋が見るもんだからね。こんなんあったんだったら、もっと早く出せば良かったんじゃねえのとお思いの貴方。この図入手したの前編、中編が書き終わってからナンすよ。すいませんね。
湯島天神周辺の火保図・昭和9年
“割烹”と書かれている花街のランドマーク魚十は赤色。『全國花街めぐり』に「待合では~一際光っている」と書かれている瓢々は緑色。他、料亭では松仲。待合では花の家、平の井(平井)、喜代志(きよし)なんかが確認できるが、これらは湯島天神の扁額にあった大和屋も含め、疑わしいヤツも全部まとめて青色にしてみた。名前が書かれているものだけでコレだから、小さい小料理屋や名前が書かれていない(ので確認できない)小さい待合・置屋なんかも含めると結構なもんだね。黄色く色が付いているのは見番(芸妓屋組合事務所)のあった場所である。神社正面表鳥居ド真ん前ってのもスゴイな。まぁ、ホントに湯島天神門前に広がってたっていうか、チンマリとまとまってたと言うべきか。他の花街と比べてもドカーンと大きな建物がない辺り、あんまりドンチャンとっていう場所じゃなかったというのが分かるな。
湯島天神鳥居横の煉瓦塀・その一
その辺をザックリと押さえてもらったトコロで、いざ出陣。と、言いたいところだが、先に以前から気になっていた正面鳥居を出てから左手側にある煉瓦塀をチェックだ。
湯島天神鳥居横の煉瓦塀・そのニ
実はコレ切通坂向こうに移る前の岩崎邸跡と言われているのだ。道路に面しているところしか見えないが、裏では神社を支えるカタチで男坂の方まで伸びている。確かにこの立派さはそれっぽいが、それにしても岩崎家(時期的に弥太郎だろうか)も妙なトコロに家を建てたもんである。向こうに移るまでの一時的なものだったのかもしれんが、ここに住み続けてれば夏目漱石にも揶揄されずに済んだような気がする。
湯島食堂
現在、敷地の一部には「湯島食堂」という自然食レストランがあり、旧岩崎家煉瓦塀を眺めながら食事ができるそうだ。しかし、まだ陰間達が去って間もない湯島天神の隣に大財閥の長が住んでいたというのはこの花街の一側面として捉えておかねばならない辺りだな。ツマリその頃、ここは本郷方面から伸びてきている“山の手”の端だったっていうことなんだよね。あくまで明治維新後の新興勢力的な意味での“山の手”だけど。この概念というか区分は時代によってドンドン変わっちゃうもんなんで、正直煉瓦塀が残ってなかったらそういうのを認識するのは難しかっただろう。そういう意味ではよく残ってくれたと言える。
金型年金会館
ということで、追加でそこを押さえたトコロでイヨイヨ花街へ。っつても鳥居の前が見番跡だ。現在は金型年金会館というまるで関係ない建物になっている。この辺り、何故かこの手のよく分からない組合とか年金とかの建物も多いんである。そして死にそうなジーサンが出入りしていたりと。
湯島天神・旧花街跡その一
この旧見番周りの一角には魚十跡の駐車場もそうだが、裏通りの瓢々跡もマンションに変わり果てており、残念ながら全く花街の匂いのするものは無い。まぁ目につくようなところは最初に開発されちゃうからねえ。火保図で見ても、(色を付けて無いのも含めると)この通りには最も待合・置屋が多かったようだが、それがかえってまとまっての廃業から開発という流れが早く進んだってのもあるようだ。なお、戦後に花街の規模が縮小してからの見番はこの裏通りにあったとのこと(最後の場所は湯島2-33-2)。
湯島天神前・やぐ羅跡
鳥居前に戻ってまっすぐに進んで行くと、金型年金会館の向かいは神社駐車場となっており、その奥にコンクリ模擬土蔵な建物がある。現在カフェに改装中のこの建物には京都に本店があるにしんそばのやぐ羅が入っていた。今はチェーン系の蕎麦屋でにしんそばは食べられたりしちゃうんだが、ちょっと前まで本格的なにしんそばを東京で食おうとするとここに来るしかなかったんだな。が、その本格派が東夷の口に合わなかったのか、ヤル気の無い接客が嫌煙されたのか、撤退となったようである。多様性ということでは残念なことだが、何度か入った自分からするとしょうがないかなというかなんというか。しかし、京都からってのも天神様絡みで何かそういうコネクションがあるんだろうか。
湯島天神前・鳥つね
隣には大正元年(1912年)創業という鳥料理屋「鳥つね」がある。親子丼の評判が高く、前々から入ろうと思っては居るのだがいざとなると足が向かず、近所だというのに入ったことが無い。まぁ近所だとってのあるよね。同じ湯島(といっても池之端の方)には鳥栄という明治42年(1909年)創業の有名な軍鶏鍋屋もあり、なんか関係あんだろうかと思ったりするが、神田連雀町の鳥すき焼き・ぼたんもそうだけど、こういう鳥を食わす店ってのは昔はアチコチにあったんだろうね。なお、この鳥つねは秋葉原に近い末広町に支店があるので、親子丼を食べてみたいという人はソチラに行っても良いだろう(以前はそこの裏でラーメン屋もやっていた)。
湯島天神前・がまぐちや
その向いは看板建築プラス鏝絵(こてえ)といった造りの建物で営業する喫茶店「がまぐちや」。替わった名前だが、以前はこの建物で巾着袋などの和装小物を製造・販売していたことから付いた名前だそうだ。花街の女性達も客だったんだろうな。ここは一度モーニングに入ったことがあり(500円)、トースト・コーヒー・固いゆでたまごと全てが好みと合っていたんだけど、ここも近所っつーことでどうも足が向かなくなってしまった。店内も落ち着いていていい雰囲気なんだけどね。近くにカフェが出来て心配だが、客層が違うんで大丈夫だろう。
湯島天神前・住宅その一
この辺りから段々花街の残り香がしてきたわけだが、「がまぐちや」の隣なんかはモロそんなような造りだ。現在は普通の住宅のようだが、恐らくそういう店だったものをリフォームしたものではないだろうか。イイカンジになって来やがった。
湯島天神・中坂
この家の前が湯島天神中坂。『御府内備考』によれば妻恋坂と男坂の間に中間にできたからこの名が付いたっていうけど、妻恋坂遠すぎるだろ。いずれにしろ、江戸の結構後期に出来た坂のようだ。この坂の途中にもラブホテルがチラホラと。休憩、宿泊共に妙に高いのは孫のような韓国人ホステスを連れ込みに(上野方面から)やってくる重役系オッサンがメイン客だからだろう。
湯島天神・中坂角度
この坂は登って行くとだんだん急になって行くという極悪坂で、若者でもママチャリで一気に上がるのは厳しいくらいの角度がある。上の写真でそれが良く分かるだろう。というか撮ってる自分も斜めってるな。このため明治が終わるまでは歩行者専用道だったようだ。途中でズリ落ちたら大惨事だもんな。
湯島天神・花街跡そのニ
湯島天神・旧花街跡その三
戻ってリフォーム住宅の塀に沿うように右に曲がってちょっと歩くと、左手には待合の花の家という店があったようだがここはマンションになってしまっている。しかし、右手の建物は入口に暖簾受けがあり、なんらかの商売をしていたのがまるわかりである。多分待合だったんだろうなぁ。その後に小料理屋辺りか。
湯島天神・花街跡その四
そのまま建物の前を通って火保図に「川元」とある奥の家の方に行ってみると御影石の小路がそのまま残っている。やっぱり、リフォーム住宅は待合か何かで小路は鳥居前の通りからここまで続いていたのだろうと思う。火保図じゃリフォーム住宅の庭、“タバコヤ”ってなってるしな。しかし、花街に小路ってのはお約束なんだなぁ。この店にたどり着くまでの迷宮感ってのが大事だったんだろうな。カランコロンと芸妓が歩く音が聞こえてくるような気がする。
湯島・天ぷら天庄
小路でことでちょっと思い出して鳥居前の通りに戻る。ちょい横の天ぷら「天庄」という店が小路を入っていくような入口なのだ。この「天庄」は鳥栄と同じ明治42年(1909年)創業。元々は現在支店になっている広小路店の方からここ湯島に店を出し、後に支店と本店が入れ替わってという流れらしい。寄席がある広小路に店があることから落語家を筆頭に芸能系の方々と縁が深く、有名ドコロじゃ古今亭志ん生から息子の志ん朝、最近じゃ内海桂子師匠がここで打ち上げやったみたいなツイートをしていた。確か、司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズでこの辺をウロウロした時、高峰秀子・松山善三夫婦と飯食ったのもここだったはずだ。余談だが、高峰秀子・松山善三夫婦は久保田万太郎が寿司を喉に詰まらせて苦悶の内におっ死んだパーティーに同席している。
湯島・天ぷら天庄の値段
この店も足が向かなかったりするのだが、近所だからではなくチョイとお高いからだ。ごま油で揚げた江戸前の天麩羅で評判はよろしいんだけど、一人でパッと寄る店ではないんだよね。どうも自分は「天麩羅は元来そう高くなくってみんなと一緒に楽しむ成り立ちのものだと思う。」と言った小島政二郎と近いもんがあるようなのだ。小島政二郎好きじゃねえけどさ。まぁ有名店なんで、ネットのアチコチに紹介記事があると思うんで、内容詳細はそっちで見てね。
湯島天神・花街跡その五
ともかく、問題はこの小路だ。一見店の入口用に見えるが、火保図で見ると鍵型に曲がって奥に通り抜けられるようになっている。そして小路の両サイドは待合と。しかし、店に入らないのにこのまま奥に進んでいくのは気が引けるので、裏側の路地から回りこんでみると、見事に小路が残っていた。
湯島天神・花街跡その六
そして、入り口につくばいが置かれた建物もある。ちと新しいんで花街があった頃のかは分からんけど、その頃の小路の雰囲気はそれなりに残っている。往時にこの小路に入ると客はキタキタキタと気分が盛り上がったんだろうなぁ。現在この一角はどうも大体「天庄」の持ち物となっているようだが、恐らく花街が斜陽になった時にまとめて買ったんじゃないだろうか。現在本館が営業している建物の場所も平の井(火保図では平井)という待合そのまんまだっていうか、建物も引継ぎじゃね。


GoogleMapのストリートビューで一応店内が確認できる(人型引っ張りだして出てくるオレンジの場所)んだが、モロ待合の造りだな。部屋に入る前に小部屋(やってきた芸妓を捌く待合サイドの女中控えと思われる)が有りやがるし。当てずっぽうだが、この何となくの色っぽい造りは間違いないんじゃないかな。
湯島・すきうどん 満川その一
と、このように公表しないで花街を引き継ぐ店がある一方、もう一本南の路地にはそれを公表するカタチで営業している店もある。すきうどん・満川だ。うどんすきプラスと京粕漬(また京都だな)を出す会席料理屋なんだけど、創業は昭和23年(1948年)というからそんな古くないというか戦後だな。その前は何か別の店をやっていたのか、他から来たのかは分からないが、店のホームページによれば花柳界が衰退するなか昭和49年(1974年)に現在の業態になったとある。火保図では店の向こうっ側にも小路があったようだね。
湯島・すきうどん 満川そのニ
さて、この辺りで戦後の湯島天神花街の栄枯盛衰をザーッと。どうも終戦後すぐに下谷の花街も含めてアメ横方面の闇市から金の流れがあったようで、それで比較的早く復興していったとも聞く。まぁどんな状況になっても持ってるヤツは持ってるもんだ。昭和24年(1949年)には料亭が11軒ほどと満川のホームページにもある。そして、今回の案内役・木村東介の本によれば、その復興した(というか戦前からか)湯島天神花街は「長谷川」という人物が仕切っていたとのこと。なんで木村東介がその辺の事情を知っているのかというと、丁度その頃に「長谷川」の娘とアレだったからだ。

その頃、私に定まるお菊さんというのがいたが、それは湯島天神花街を牛耳る料亭長谷川の一人娘だ。一人娘のくせに、好きで芸妓になり、踊りでは先々代坂東三津五郎の彼女だった坂東三津代の高弟であった。<中略>彼女は戦時中も戦後も私と一緒にいた人だから、私の一生を通じての、心と魂の一番こまやかに通っていた人のように思う。私の食い道楽の本性これ程汲んだ人はなかった。

これだけホメているのに、食い物を勝手に全部食ってしまったという理由で別れちゃうんだけどね。このお菊さん、「長谷川」の実際の娘というわけではなく、単騎シベリヤ横断でも知られる福島安正の息子が湯島天神の芸妓に産ませた子を引き取ったというナカナカにヤヤコシイ出自であったとのこと。それはともかく、湯島天神の方はその後、他と花街と同じような流れで衰退していくわけだが(昭和30年代には芸妓が30人ほど、最盛期の3分の1以下だね)、満川が転業した昭和40年代のオワリ頃には他に料亭は二、三軒という寂しい状況になっていたようである。そのちょっと後の三業組合が解散した昭和50年代半ば頃、湯島天神花街の終焉といった頃の状況も木村東介の本で確認できる。

湯島天神は、年と共に栄えてきたが、湯島花街の火は消えた。今お菊さんのいる料亭長谷川がたった一軒、八つ墓村のモデルのような家と屋敷が残っていて、ここ二、三年唄や三味の音を聞いた人がいないという。私は尋ねてみたい衝動にかられているが、九十余歳の親父が、あれに来られてなるものかと意地になって長生きしているので行けない。長谷川老人が、料亭長谷川と、置屋長谷川と、見番とを掌握し、次々と近隣の料亭を買い占め、湯島花街を掌握し、完了し得た頃、かつて百人にあまる芸妓と絃歌さんざめいた歌と踊りと三味の街は全く消え失せて、料亭は長谷川一軒、芸妓はたった一人、若龍という姐さんだが、若龍に非ず老龍と称すべき六十五、六歳。それも月に二、三度客があるか無しという。

そういや以前に芝神明の花街のことをちょろっと調べてことがあったが同じく閉じたのは昭和50年代だったな。滅びんの早くね?とお思いの方も居るだろうけど、これ花街が斜陽になったときに転職できるような若い人は他(例えば温泉地とか)に行っちゃったり、見合いして結婚しちゃったりするからなんだよね。で、他に行きようのない気合の入った姐さん(上の若龍のような)だけが残っての限界点が昭和50年代であったと。って辺りでザーッとは以上。なお、「長谷川」がどこにあったかは、大体目星は付いているんだけど、しっかりとした資料が見つかったら加筆することにしよう。
湯島・満川横住宅の泥棒よけ
全然関係ないけど、満川横の家の泥棒よけが物々しくて何かイイ。
湯島天神・鳥居前通り駐車場
満川の路地から鳥居前の通りに出ると向かいに駐車場がある。どこにでもある時間貸しパーキングだ。
湯島天神・鳥居前通り火保図(昭和9年)
問題はその奥に古めの建物が二軒見えることなんだね。火保図では近松旅館、陽明旅館ってのが並んで建っている辺りだ(横には天理教)。
湯島天神近く・旅館跡その一
ということで駐車場奥まで進んで壁向こうを見てみると、どちらの建物も旅館かナンカやってましたと白状するように入口にロッカーが置いてある。ただ、しばらく人が入った形跡がなく完全に空き家のようである。ここ、敷地の樹木がほうっておかれてるんで夏になるとセミ集合場所になってるんだよね。斜面に建ってるんで二階が入口みたいな造りのようだ。
湯島天神近く・旅館跡その二
かといって戦前からのそのままの建物といったわけではなく、外壁等はそれなりに手が入っているような。多分戦後もしばらく下宿等で稼働していたんじゃないだろうか。どちらも合わせると結構な敷地なわけで放置されているのがよく分からんけど、バブル期に開発業者が入口の土地(駐車場)を買ったものの、その後上手く行かずというパターンだろうか。いずれ開発されるのかもしれないが、この土地らしいタンパクな風景ではある。
湯島天神・花街跡その七
旧花街側に戻って南にちょい下がると横に小路が見事に残ったそれらしき空き家がある。郵便箱は残っているが入口は思いっきり塞がれているな。
湯島天神・実盛坂上周辺火保図(昭和9年)
火保図では表側が「料理ヤ」、奥が「福寿美」となっている。読みは“ふくずみ”かな。現在同じ敷地になってるというか、これ別々に書いてあるけど当時からどっちも福寿美だったんじゃないだろうか。『全國花街めぐり』にある瓢々の造りが「京都風の優雅な庭造りで、殊に庭下駄をはいて座敷へゆく」ってのと同じなんじゃね。小路はさっきと同じ両側花街系って感じか。小路南の「ソバヤ」は今も営業中。なんか表に霊波之光の看板がいっぱい貼ってあります。
湯島天神・花街跡その八
湯島天神・花街跡その九
ということで小路に入ってみると丸見えになった庭に灯篭等が残っており、そういう場所だったのがしっかりと分かる。その先の建物も明らかにカタギじゃない。二階の窓には高欄もしっかりと。というか庭から何から『全國花街めぐり』の記述そのままじゃん。
湯島天神・花街跡の小路
湯島天神・花街跡その十
湯島天神・花街跡その十一
さらに奥に進んでいくと丸窓もあった。凝った造りだなぁ。完全にその頃からの建物ですな。二階の高欄の造りも美しいね。下にエアコンの室外機があるからどうも最近まで人が住んでいたようだ。しかし、こういう建物が空き家になってるってのは廃墟・廃屋系の人にはウケるかもしれないけど、もったいないなってのが正直なところだな。オサレビルじゃなくて、こういうガシッとした建物で日本料理屋やってみたいって人が居ると面白いんだけど。
湯島天神・花街跡その十二
家の裏に回ると奥に釜が積んである。料亭系だったっつーことかな。その横に古道具屋で見たようなモンが置いてあるが(筒状のものがくっついているやつ)、ナンだったか思い出せん。うーん。
湯島天神・花街跡その十三
考えつつ歩いて行くとそのまま先の路地まで通り抜けることが出来た。ナカナカ良い小路だった。
湯島天神・花街跡その十四
抜けての路地もそういう店があったようだが、現在それらしき建物は残っていない。以前小さな寿司屋が一軒あって昼の丼物を食べてみようかと思っていたら閉店していた。かといってそういう寂しい話ばかりではなく、新しくイタリアンがオープンしてそれなりに繁盛していたりする。多分新たにバシバシ出来ているマンション住人を引っ張れれば、やっていけるのりしろはあると思われる。実際、天庄の前にベビーカーが並んでてびっくりしたこともあったしね。こういう新規住人であるハイソを気取った若マダム辺りを狙っていくってことになるんだろうが、それから脱落していく店も出てくるんだろうな。
湯島天神・実盛坂
といった辺りでもう一度鳥居前通りに戻る。火保図上でハッキリと花街的店舗があるのはこの蕎麦屋辺りまでなんですな。ということで後はゆるゆるとそれっぽい残り香を探して彷徨くことにしよう。蕎麦屋前から黒門町方面を振り返ってみると、エライ急角度な階段がある。実盛坂である。白髪を染めて最後の出陣をした斎藤別当実盛がこの辺に住んでいたとか。地元の人はその急角度と幅の狭さからおばけ階段と呼んでいる(いた)そうである。狭い階段なんだけど、千代田線湯島駅から本郷方面へ向かう人で朝の通勤時間は結構人通りが多い。写真確認すると下から誰か見てるな。
湯島天神・実盛坂途中の石垣跡
坂の途中からコンクリで埋め込まれた石垣なんかを眺めることができる。
湯島天神・下からの実盛坂
下ってみると男坂よりも急角度で長いのが分かると思う。元の幅は下の部分ね。下の方だけ権利関係で広げられないんだろうな。こういう横に溝が無い妙な造りなんで雨の日はビッタビタになって大変歩きづらい。いろいろと変わってはいるんで坂マニアの間では結構知られた坂らしいけど。
湯島天神・実盛坂下火保図(昭和9年)
坂の途中にも旅館があったそうだが、火保図で見ると坂を下ったトコロに花水旅館、鶴村旅館という結構大きめの旅館がある。前に坂の下は安宿や下宿が多かったということはふれたと思うが、今は結構しそうなマンションが並んでいたりする。今は湯島駅まで歩いて1分くらいだしね。坂登らずに済むし。
湯島・小ばやし
気になるのはこの辺りに小料理屋っぽい建物が幾つか残っていることだ。下の「小ばやし」はそういう建物を利用して現在も営業しているお店だ(どうも一見さんお断りなのか業態は不明、店自体は新しい)。花街との直接的な繋がりがあったかは分からないが、戦後に花街がズルッとなってから人が来やすい坂下に小料理屋系が移って来たのかもしれない。
湯島天神・実盛坂下煉瓦塀
急な実盛坂を登るのは面倒なので、三組坂の方を回って坂上へ戻ることにする。坂の説明はアチコチに坂好きサイトがあるからいいよね。
三組坂・ラブホテル
途中、江戸時代にはゴミ集積場だったというガイ坂(芥坂、ブラタモリに出てきたっけ)を通って三組坂へ出るとラブホだらけである。ただどれも本気ラブホか偽装ラブホかちょっと分かんないというか。ちなみにこの辺りは妻恋坂周辺のホテルと合わせて不倫によく使われるなんて噂があったり。まぁ中途半端で目立たない場所だからね。こっちでも重役系とギャルのカップル多し。カップルじゃねえけど。
よく花街は衰退後、ラブホテル街に移行して行った何てことを聞いたことある人もいるかと思う。部屋数が多い待合や置屋が同伴旅館に転業して、それからラブホテルって流れだね。しかし、ここまで読んだ人にはなんとなく気づいたかもしれないが、この湯島天神花街のコア部分にはラブホ無いんである。湯島小学校が近かったってのもあるんだろうけど、どうも花街自体は衰退した時に特に生き残りに汲々とせず(「長谷川」が牛耳ってたってのもあるんだろう)、どうもぶら下がってた周りの下宿、旅館等が同伴旅館からラブホへ移行していったようなんだね。湯島天神に限ってはどうも花街をどーこー言うのは冤罪と言っていいのだ。
ラブホに関しては難しい問題が多すぎてちょっと手を突っ込めないんだけど、2011年に改正された風営法含めラブホ動向は湯島をウォッチしていく上で外せない辺りである。
湯島・ホテル江戸屋
三組坂を登っていく途中にはラブホではないホテル江戸屋がある。基本ビジネスホテルらしいが、二人部屋の和室が一泊1万しないってことで結構外国人に人気があり、どこぞに出かける前なのか白人家族が店の入口の縁台に佇んでいたりする。秋葉原、上野、浅草に出やすい場所ではあるしね。震災後しばらく外国人客が減ったようだが、最近はゴロゴロをキャリーバックを引っ張って坂を登る姿をよく見るようになった。良かった良かった。
三組坂・石階段
坂の途中には歴史があるだけに、伊豆石(多分)で作られた石垣や階段がちょろちょろと残っている。東京(江戸)には石の産地なんてないんで、江戸城の石垣もそうだけど、基本は伊豆から小田原辺りの安山岩を切り出して持ってきてるんだよね。街歩きのチェック項目としては分かりやすい(明治になっても使われてはいるんだけど)。
湯島・古式蕎麦
上がりきったところで、そろそろ何か腹に入れたくなったので蕎麦屋に飛び込む。臆することなく入れるっていうことでは蕎麦屋に勝るものはない。まぁお似合いというか。というか看板の家紋?が特徴的なこの「古式蕎麦」にはチョロチョロと来てるんですな。
古式蕎麦・古式もりそば
さらに特徴的なのはこの蕎麦屋一押しの古式もりそば。見ての通り挽きぐるみで真っ黒。しかもツユは大根の絞り汁と生醤油を混合させるという、正直ココ以外で見たことがない代物。で、食べてみると妙にサッパリと、ソバの味もしっかりと分かって妙にイイ。ということで、タマに来てる店だったりするんですが、小さいお店なんで土日の昼時には満員のことも多いので気をつけましょう。後、店主に蕎麦のこと質問すると長いって噂も聞くのでその辺も。その辺好きズキですので。そうそう、ここ蕎麦湯が湯のみで来るんで何だと思うんだけど、ツユの方をそっちに注ぐのが正解らしいです。
湯島・イタリア食堂ピッコロ
腹が膨れて気持ち的にまったりとしてしまったが、後は花街の残り香を探してフラフラするだけなので問題ない。蕎麦屋を出て向かいの路地に入って行くと古い下宿風の建物を改装して営業する「イタリア食堂・ピッコロ」がある。数回入ったが紹介する時に“食堂”の方を強調したいような内容のお店である。最近入っていないので分からないが、以前は猫が店内をウロウロしていたりして、撫でたくなったら来ていたという感じ。ここもその辺好きズキなんで。店主が緑色だったりはしません。
湯島・猫その一
と、そのまま先に進むと道の真中にボヤッとした感じで猫が。偶然過ぎると近づいていくと当然のように道端へ。
湯島・猫そのニ
しかし、そりゃそうかと遠ざかると何故か着いて来ようとする。どうしたいんだお前は。
湯島の住宅
この辺りにも品のある古い住宅がいくつか残っている。三味線の師匠とかが住んでる風ではある。実際住んでたかもしれん。
湯島・マンション建築現場
が、その先は思っきりのマンション建築現場。何度もふれてるけど、ほんっとブロックごとにやってんだよね。そのマンション街化に地域社会がナンの対応(抵抗)もしてないってのが特徴っていえば特徴かな。
湯島・路地の植木鉢
湯島・路地の花
とはいえ、路地横には植木鉢が並んでていたりして東京の古い街的な情景もしっかりと残っている。
湯島・料亭風建物その一
さらに彷徨くと、明らかに料亭か何かだった建物が。
湯島・料亭風建物そのニ
入口みたらモロそうだね。というか花街からはチョイ外れているし、火保図でも普通の住宅みたいなんで、戦後バラけた系のお店だったのかもしれない。現在は普通の住宅のようで、高級車も停まっている。そういやここ“山の手”なんだった。
湯島・図書館横ラブホ
それでいて七十年代的装飾のラブホが図書館の隣にあるとか。まぁ花街の後だと小ネタだな。

ということで、そろそろ見るもんも無くなってきたんで総括に入ろうと思うが、彷徨いてみて湯島天神花街跡から受ける印象として良くも悪くも“山の手”ってのが何となく残るトコロではある。タンパクってのはちょっと書いたけれど、逆に言いうと主体性が無いというか。こういう印象はどうも正しいようで、加藤藤吉の『日本花街志』にはこんなことが書かれている。

ここの花街は極めて地味な土地で昔から名妓も生まれなかった。更に屑もない処で土地っ子がすべてを支配しているため、他のような合理化を謀る資本家の進出も無いので、妓品の目立って落ちるものも無く、親の代から湯島の高台で平々凡々の日々を送迎しているのだから、他の花街のような生存競争の生々しさは、爪の先程も見られない。それがこの花街の生命であるらしく客筋も経済界に縁の遠い、学界の人やそれに関連する方面なので、派手な話も生まれないかわり、不渡り話も無い。広い東京だからこんな花街もあるのであろうが不思議な存在である。

この本が出版されたのは昭和31年(1956年)なわけだけど、花街のその後と今を見て来た後だと、その見抜きっぷりはマコトに慧眼という他はない。その良く言えば“不思議”な中途半端さからピンク街にもならず、飲み屋街にもならず、ラブホと山の手が混在する街になったと。しかし、「名妓も生まれなかった」というクダリは木村東介が突っ込みたい辺りだろう。

昭和十年、湯島に店を持ち始めた時、切通しの坂を登りつめた鳥居の前の角が魚十という大きな料亭で、そこに歌妓舞妓の美しく着飾ったのが出入りするのをときおり見かけたが、その中に小蝶と小はんという名妓がいて、心の中でアッと思ったことがある。<中略>芸妓の歩く姿を横目で睨みながら「いつか成功して、必ず大盤振る舞いしてやる」と固く心に誓って脇目もふらずに働いた。そして間もなく、名妓が苦もなく呼べるようになり、湯島花街で佐野の大尽並みになれた頃、戦争に突入した。

小はんの方はその後、いい旦那に引き取られ無事疎開したらしいが、小蝶の方は東京大空襲(木村東介の本には間違えて昭和19年と書いてある)の時に明治座の地下に逃げ“黒焼けになってしまった”そうである。この小蝶、湯島天神内の碑の中にチラホラと名前を見かける美人画の大家・伊東深水(朝丘雪路の父親)のモデルになっていたそうで、戦前の作品群の中に「名妓小蝶の姿は今もなお生きている」そうだ。悲劇的な話であると同時に、運命に抗えない感じは湯島天神花街跡から受ける印象とかぶるものがある。オワリとしてふれるエピソードとしてはふさわしいような気もするが、どうも湿っぽいね。

というわけで、最後は木村東介が別れたお菊さんと再会する話がカラリとしてナカナカ良いのでそれを引いて終わることにしよう。こっちの方が何か最後にふさわしいような気がするのだ。坂の上の明るさというかね。

湯島天神の縁日とか、その他お詣りや朝の散歩にかこつけ、料亭付近をうろついたことも五、六回あったが、毎日の手形小切手に追いかけられると息つく暇なく五、六年は夢の間に過ぎたが、不思議に会わぬ。しかし、一度、上野広小路の雑踏の中ですれ違ったときは一瞬を捉えて、
「オイ! たまにはさせろ!!」
と呼びかけたら、真剣な顔をして、
「場所みつけていらっしゃい!」
と電撃的な返事を返して、稲妻のように別れた。そしてあれこれと場所を考えたが、その場所と日付とその間隙を探しだすのに命がけの苦労だし、それに向こうへ電話をかけようにも、電話番号は何度聞いてもわからぬ性分で、即ち数字に弱い白痴症は、小学校以来の修正で、折角の神機も時の流れにムザムザと押し流され、もう十余年になった。

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