諫山創 『進撃の巨人』 童貞の巨人が行く

今回は「このマンガがすごい!2011」のオトコ編一位に見事選ばれた『進撃の巨人』を取り上げます。注目されまくった後に今更という感じもしますが、今更だからこそ俯瞰して見れるんじゃないかと。

では読んでいない方のために冒頭辺りを簡単に―
107年前に突如現れた人間を捕食する巨人に人間はほとんど喰い尽くされ、生き残った人類はその侵攻を逃れるための50メートルの巨大な壁を三重に築き、その中でかりそめの平和を保ってきた。だが5年前に壁を越える超巨大巨人が出現し一番外側の壁「ウォール・マリア」の開閉扉を破壊、100年の空腹から解き放たれた巨人たちにより人類は再び蹂躙されてしまう。人類は「ウォール・マリア」を放棄して二番目の壁「ウォール・ローゼ」まで後退、また何時現れるか分からない超巨大巨人に怯えながらも反攻の日に備えるのだった。このときの「ウォール・マリア」陥落時に母を失った主人公エレンはその反攻の尖兵となり巨人を駆逐することを決意。幼馴染のミカサ、アルミンと共に訓練兵団に入る。そして兵士となったエレン達の前に超巨大巨人が再び現れるのだった…

さてこの巨人共、プラナリア並の再生能力があり大砲で頭を吹き飛ばしてもあっという間に元通り。絶命させるには急所部分であるうなじに激しい損傷を与えるしかないっていうイー○バイルの解約レベルのキビしい設定になってます。で、通常兵器は無理ってことで人間側は立体機動装置というアンカーを打ってガスで巻き取るという特殊な装置で巨人に取り付き、折る刃式カッターナイフのような剣でうなじ部分を削ぎ取るという無茶な戦い方をするしかないわけです。当然喰われまくり。しかも、ハンカチ王子の追っかけババアのようなヤクキメ顔の巨人共は、まるでタマゴを喰らう坂東英二のように人間をホイホイと口に放り込み殉教感ゼロ。絶望的な状況で絶望的な戦いをせにゃならんデストピア。三巻のオビも~これが21世紀の王道少年漫画だ!!「捕食者・巨人」VS.「餌・人類」。絶望の戦いが始まる!!~で決まり、と。

そんなこんなで現在の未来の見えない世相を反映した形で「絶望」を扱いウケた作品であると大いにプッシュされ、世間的な評価もその辺で固まりつつあるわけだけど…
ちょっと待て。こういう「絶望」を扱った作品って俺がガキの頃は結構あったんじゃね。

分かりやすくジャンプを例として説明しますと、ジャンプってバトル路線が固定化する前って載ってるものが結構カオスだったんですよ。江口寿史や寺沢武一の連載があって、『キック・オフ』なんて怪作ラブコメがあったりみたいな。で、そのカオスな中におおっぴらではなかったけど「絶望」を扱った作品があったんですな。読んだ後に気分が重~くなる諸星大二郎やジョージ秋山とかの作品が。正直当時一般的にウケてはいませんでけどね。

ジャンプ、いや少年漫画の基調は童貞感覚であるといって差し支えないと思いますが、バトル路線の固定はその感覚を何でも出来るんだぜっていう中二的「万能感」に一本化し、逆のベクトルの外を拒絶するヒキコモリ的「無力感」は排除する方向性であったと言えます。童貞は知らないが故に自由であり無力ってのは男子なら分かるよね。そしてその童貞の「無力感」こそ少年漫画における「絶望」であって、ジャンプ的バトル路線がスタンダードになっていく中で、それを背景にした作品はほとんど見られなくなったため忘れられてしまったということでしょう。まぁバブルへゴーという時代背景もあったわけですが。
面白いことにこの作品、最初はジャンプに持ち込まれたそうで「漫画じゃなくてジャンプを持ってきてほしい」と編集に言われたそうです。象徴的な話過ぎるというかなんというか。

今の日本社会の状況に童貞の「絶望」がピッタリと来たというのは間違いないと思うんですが、それは21世紀のとかいう新しいところから来たわけではなく、インフレ化していったバトルものの万能感から目が覚めた我々が肉体感覚としてのそれを取り戻したと見るべきだと思います(実際この作品は肉体をめぐる物語という側面もあります)。人間を喰らう巨人の股間がツルンとしていて生殖能力がないという設定になっているというのは、作者が無意識のうちに童貞感覚の方向性を強く意識しているという証明と言えるでしょう。
おそらく今後同じように絶望を背景とした少年漫画は増えていくでしょうが、『進撃の巨人』がエポックとして記憶に長く残る作品となるのは間違いないと力弱く断言しておきます。いやなに、まだ物語はおもいっきり序盤なんで。

 

 

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