ゾンビとユートピアと私 棺桶から<反原発>

さて、しばらく間が空いての寄稿となってしまったわけですが、原因は言わずもがなの震災です。

と言っても今回被害の中心であるところの津波・原発からは安全圏の都心で生活していますので震災それ自体による被害で書けないような状況に陥ったわけではなく、そのような安全圏で主に中高年層で噴出したうすらみっともない状況をここで取り上げるにはどのような形が良いかと迷っているうちに時間が過ぎていってしまいました。
生活的なものが落ち着いてきて、彼らの行動を理解するには80年代とその中での反原発ブームを振り返ってみる必要があるんじゃないかと当時の空気感が掴めるような良いテキストを探し始めたんですが、「紹介」も兼ねといった辺りでナカナカに現在も容易に入手できるって辺りがクリア出来ず苦労しまくり。更に時間が~とか言ってたら灯台下暗しという感じで自分の本棚で文庫化されている入手し易い良いテキストが見つかりました。

大塚英志の『定本 物語消費論』です。この本の中にそのものズバリといった内容の「<反原発>の都市民俗学」(88年6月)というテキストがあるんですが、震災後のうすらみっともない状況をそのまま説明できるような内容でちょっとびっくりしました。
そして面白いことに、このテキストは「団塊の世代にも困ったもんである」という流れの中で出てきているんですね。

まず、「団塊世代の美しい青春」(88年3月)というテキストがあり、これは村上龍『69』や村上春樹『ノルウェイの森』などの現在(80年代)に過去(70年代)の青春を描く小説が幅をきかす背景には、日本社会の経済の中枢として自信を回復してきた団塊の世代、全共闘世代の自己肯定があるんじゃないかという指摘で、オリーブ少女(懐かしいね)に70年代はおしゃれと語るのは戦争を美化する彼らの父親と同じようなもんで困ったもんだという内容です。

これには反論が結構あったらしく本の雑誌(因みに本の雑誌はほぼ”団塊の世代”といった人達によって創刊された雑誌です。)で、それに答えるようなかたちで「”団塊の世代”は今なぜトレンドになっているのか」(88年11月)が書かれたようです。
”団塊の世代”はその自意識とそれの共有意識の強さゆえに下の世代(主に団塊世代ジュニア)を巻き込む形で「ひっかけやすい」マーケティング対象としてトレンドになっており、70年代を美しく描く青春小説もその延長線上にあると。そのように”団塊の世代”のアイデンティティがトレンドとして提示されても、下の世代はそれを理解しているのではなく、新しい流行を消費しているだけだと。そして次の文章です。

<全共闘>的なものがトレンド化した最大の流行は反原発である。不惑をむかえた忌野清志郎が反原発ソングを歌い、「宝島」少年たちがそれに呼応する。~中略~<反原発>に向かう十代少年少女の心理に全共闘世代の語った学生運動のおとぎ話の影響は確実にあったはずである。団塊の世代は負けたことを語らず、ただ”武勇伝”を青春の物語として語っている。そういう意味で、反原発運動は”全共闘”のシュミレーション化された商品である。

かけてもいいが、『危険な話』以降の反原発運動は来春までに沈静化する。<消費>されてしまう。~中略~東京では団塊世代に向けた新しいトレンド(それは何らかの形で<宗教>と関係すると予想できる)が商品化されているはずである。
そうならないために、団塊の世代は自分たちの文化についてむやみに肯定しまくるべきではない

これらのテキストの間に反原発に内容を絞った「<反原発>の都市民俗学」(88年6月)があるという流れなんですが、これは是非買うか立ち読みするかしてください。全文紹介したい内容ですが、流石に長くなりますので。
実際この後に反原発ブームは<消費>されて、結構あっさりと消えていったような印象があります。それにしても、90年代に入って残りカスのような人達がオウム事件を起こすことを考えると示唆的な内容というかなんというか。事件の後、大塚英志はオウムを「おたくの連合赤軍」と呼んでましたね。
ただ、個人的な印象としては雁屋哲の『美味しんぼ』的なものにも回収されていったようなイメージもあるんですよね。自然食的なものを土台にした<消費>の肯定というか。これは後のロハスなんかに引き継がれているような気がします。

副読本として同著者の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』も読むことをお勧めします。

たとえば下記URL。
https://togetter.com/li/123544
オウム事件に論ずる中に「逆に単なる皮肉で記すのだが、竹熊健太郎のように宮崎事件に乗りそこねたライターが社会化する方便としてもオウムは活用されたかと思う。」とあってなるほどと思ったり。思想家見習いだかなんだかグラグラして立ってる場所をあちらこちらと変えている人は「物語消費」そのものじゃないかと思ったり。今回のことの何事かを掴むには上記と合わせる形で役に立つかと。
また、日本的事情もひっくるめた辺りで『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』もお暇があれば。

80年代を思い出してみると、『AKIRA』が象徴的ですが、閉塞感と一体となった破滅後のユートピアみたいな思想がなにか共有されていたみたいのが個人的な記憶としてもあるんですよね。
すべて無くなって一から出直すみたいな手塚治虫らの戦争と焼け跡の記憶を源流とするものなんでしょうけど。それと上記のコンビネーションとしてのオウム、それに繋がるかたちでの震災後のうすらみっともない状況と。
大塚は80年代は隘路であって、しかも終わり損ねたような実感があると書いていますが、そのような終わり損ねた人々が未来をどうこうするのは止めてもらいたいもんです。

21世紀になって、80年代のゾンビどものドヤ顔をこういう形で見ることになるとは思っても見なかったわけですが、彼らを墓へ葬らねば本当に死んでいった人達に申し訳ないような気分があり、ちょっと書いてみました。
次回からは通常に戻りたいと思います。

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