湯島・本郷散歩 老舗和菓子屋 藤むら(藤村)羊羹編

5月 31, 2011 1 Comment by

春日通りを本郷三丁目交差点に向かって、漱石の「三四郎」に登場する会堂(チャーチ)のモデルらしい本郷中央会堂、安政4年(1857年)創業の老舗出版社・吉川弘文館をもったいぶるように眺めつつ歩いて行くと、話的に特に起伏の無いままあっというまに最後の目的の店に到着。ここで店の紹介を始めてしまうのも、なんとなく盛り上がらないので、先に三丁目交差点を中心とした本郷の歴史を簡単に。

三丁目交差点を、そのまま春日方面へ渡りながら、北を望むかたちで本郷通りを眺めると、道は一旦下がっていって、菊坂辺りから上りになっています。太田道灌が江戸を支配していた頃、江戸を追放となった罪人は坂を下がったところにあったという別れの橋(小川があった)で放たれ、ここで親戚縁者に見送られたため、そこまでの下り坂を「見送り坂」。
本郷三丁目交差点から東大赤門方向を眺める
罪人は橋を渡った後の登り坂から振り返りつつ北へ去って行ったため、そこを「見返り坂」と。明治に道を平坦にする前は、坂の勾配はもっと急だったと記録にあります。ここには境界に置かれることの多い刑場や晒し場もあり、本郷は江戸から北の他方への出口的な場所として発展していったようです。
江戸名所 本郷の景
江戸時代に入り本郷通りは中山道と日光御成道をかねる(現在の東大農学部前で分岐)重要な幹線ということで、現在の三丁目交差点周辺も町屋として早い時期から開けて行きます。その交差点角には現在「本郷もかねやすまでは江戸の内」という古川柳が書かれたプレートを掲げたビルがあります。
本郷も かねやすまでは 江戸の内
元禄年間に、この辺りで兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨粉を売る小間物屋を開いて大変な評判となり、まるで祭りのように客が押し寄せて店は大繁盛。本郷三丁目と四丁目との境を通る横町が兼康横町と呼ばれるほど賑わいましたが、享保5年に江戸大火が起き、かねやすを含む本郷・湯島一帯も被害に遭ってしまいます。当時都市行政を担っていた大岡忠相は、防火対策として江戸町火消しいろは四十七組を設置すると同時に、町家に防火能力の高い瓦屋根と土蔵造りを推奨する政策を打ち出し、かねやすもこれに従う形で建替。しかし、かねやすまでは、そのように瓦屋根・土蔵造りでの再建と建替えが進んでいったものの、ここから北の本郷通り沿いにはそれまで通りの茅葺き、板葺きが続いていたようです。
江戸切絵図・本郷
そのため、江戸っ子の間に目立つ大きな土蔵造りのかねやすを江戸の境目とする認識が固定化していきました(実際の江戸町奉行支配は駒込辺りまで)。江戸市中の町境に作られた木戸もあったらしく、道灌の頃からの「境界」としての位置付けは変わらなかったわけですね。かねやすは年配の女性向けの洋服・小物を売る店として現在も営業しています。今のかねやすは家賃収入でやっていけてるのか、いまいちやる気があるのかよく分からない店なんですけど。なお、切絵図にあるように、のちの春日通りは真光寺が遮るようなかたちになっており、十字路ではありませんでした(江戸防備上の理由かと思われます)。

現在の東大赤門
明治に入り、近代化を急ぐ政府が東京帝国大学という欧米文明の「配電盤」を旧加賀藩邸跡に創設すると、ここ本郷は「立身出世」を目指す若者達と多くの知識人達が集まる新文化の中心地となります。ちょっと近隣に住んでいた文人だけ名前を挙げていきますと、尾崎紅葉、坪内逍遥、正岡子規、樋口一葉、森鴎外、石川啄木、若山牧水、島崎藤村、高村光太郎、二葉亭四迷、宮沢賢治、川端康成、と出てくる出てくる。明治末から大正には名編集者として著名な滝田樗陰が在籍する中央公論社も本郷にありました。

当然、彼らが贔屓にしていた店もいろいろと。森鴎外一家が常連で、マカロンやチョコレート、葉巻などの販売もしていた喫茶室・青木堂。川端康成との間で恋愛から婚約、そして破談という「非常の手紙」事件を起こした伊藤初代がいたカフェ・エラン。そして宇野千代が給仕女として働き、前出の滝田樗陰や芥川龍之介、久米正雄、今東光と知り合うことになった西洋料理店・燕楽軒。さらに、谷崎潤一郎や竹久夢二など多くの文化人が利用し、大杉栄が愛人に刺された後に身を隠していた菊富士ホテルなどありました。ラジオやテレビのない当時の文人達は先端を行くある種のスター(しかも内実のある)であり、彼らが集まる本郷も同様の憧れを持って見られるような街だったわけです。
江戸銘菓 藤むら羊羹
さて、今回紹介する店も数々の文人墨客に愛され、森鴎外や夏目漱石の作品にも登場する店なんですが、かねやす前から湯島方面を眺めると、その店の何やらくすんだ看板がしっかりと見えます。その看板には「江戸銘菓 藤むら羊羹」。

藤むらの起源は、練羊羹の元祖といわれる京都伏見の駿河屋(当時は鶴屋)に肩を並べられるような羊羹をつくるよう、加賀前田藩始祖である前田利家が家来に命じたことに端を発しています。天正17年(1585年)豊臣秀吉が聚楽第で諸大名を集めたときに駿河屋の練羊羹を自慢したらしく、それがおもしろくなかった利家を含む一部大名が、秀吉の鼻を明かそうと羊羹作りを始めたようです。このことは火坂雅志が『羊羹合戦』という作品にしていますので、是非お読みください。
東京じまん名物会 藤村
さて、実際に羊羹を開発することになったのは、加賀前田家城下町・金沢で金物屋を営む千利休の門弟であった茶人・金戸屋(姓ではなく屋号。かねと印は看板に残っています)忠左衛門。苦心の末、三代目利常の代である寛永3年(1626年)になって、ようやく製造に成功し、利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受けます。忠左衛門は帯刀を許され、羊羹の味に因んで「浅香」姓を賜って、藩の御用菓子司に。その後、宝暦4年(1754年)に十代重教の江戸出府に従い加賀藩邸前に店を移転。この時に羊羹の色に因んで「藤村」に改姓。店の屋号も「藤むら」とします。
ちょうど練羊羹が高級菓子として浸透していった時期でもあり、藤むらもそれに合わせて、歌舞伎「盲長屋梅加賀鳶」や落語の「寝床」「茶の湯」「禁酒番屋」などにも登場するような江戸を代表する羊羹屋となっていきます(余談ですが、現在羊羹で有名な赤坂に本社がある“とらや”は明治維新後に京都から進出してきたお店です)。そして、明治に入ると本郷に集まってきた文人達が作品の中で「藤むら」取り上げ、その名はさらに高まることになります。

夏目漱石「我輩は猫である」の資産家・金田夫婦の依頼を受けた鈴木が苦沙弥を口説くところに迷亭がくる場面。

~噂をすれば陰の喩に洩れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然と春風に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような狎客になると苦沙弥はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村の羊羹を無雑作に頬張る。

『草枕』の羊羹賛美の描写も、藤むらの羊羹を指してのものだと言われています。

菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好物だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。

自らをモデルした『我輩は猫である』の苦沙弥もジャムを毎日舐めていましたが、漱石は甘いものが好きということは知人達の間でもよく知られていて、藤むらの羊羹を手土産に持ってくる友人もいたようです。また、妻・鏡子の口述による『漱石の思ひ出』(岩波書店)に胃が悪い漱石のため羊羹を隠すエピソードがあります。漱石、晩年は糖尿に苦しむことになるんですけど。

森鴎外の『雁』の中には羊羹ではありませんが、藤むらの田舎饅頭が何度か登場します。

お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭でも買って遣ろうか。それでは余り智慧が無さ過ぎる。世間並の事、誰でもしそうな事になってしまう。

鴎外は饅頭をご飯に乗せて熱いお茶をかける饅頭茶漬を好物としていたと小堀杏奴『晩年の父』(岩波文庫)にありますので、おそらく藤むらの饅頭でもそれをしていたんでしょうね。この饅頭は羊羹同様に知られていて、練羊羹にちょっと手のでない江戸っ子はこちらで藤むらの味に親しんでいたようです。

このように文豪に愛され、“江戸銘菓”の名に恥じぬ歴史を持つ藤むらが現在どうなっているかというと~。
老舗 藤むら 2011年5月
シャッター締りっぱなしです。すでに1990年代の半ばくらいからこのような状態だったようです。何度かシャッターが開いているのを見ましたが、窓の向こうにブルーシートがべったりと貼られて中が見えないようになっていました。2005年くらいから数年間、予約のみ受付というかたちで羊羹の販売のみ復活していたようですが、現在は常連のみの予約販売だけ続けているらしいとの噂。少数の生産は続けているとはいえ、10年以上店を開いていないわけですから、ほとんど廃業状態といってしまっていいでしょう。
藤むら 看板
こうなってしまった事情に関しては、「東大卒の店主は元々継ぎたくなかった」「不動産があるので店に執着する必要はないと考えている」「息子三人も東大に行き、継ぐ気はないらしい」という話が聞こえてくるのですが、いずれにせよ、店として代替わりに失敗したという辺りのようです。まぁ職人さんに名を継がせることもできたわけで、キツイ言い方をすると、学問道楽で名舗潰したというか。数年前に店主が亡くなったという話も聞きますし(予約での販売が中止となったのはこの辺の事情か?)、安土桃山時代の羊羹戦争に起源を持つ藤むらは風前のともしびと言ってもいい様な状況なわけです。

明治期の本郷を「配電盤」だったと書いた司馬遼太郎の著書に『アメリカ素描』(新潮文庫)という本があります。その中で、アメリカ人に「日本で、たとえば銀座にあるような一流店舗の子供が東大を出たりすると、役人とか大会社の社員とかになりたがるが、あれがよく分からない」と問われた司馬が「かれらはサムライになりたいんです」と答える箇所があります。
続けて、江戸時代に武士達のほとんどは貧しかったが、牧民官であることと教養を持っているということで誇りを持ち、信じがたいほど汚職の少ない社会を作った。そして、経済を実質的に握っていた商人達も、それを見てお侍さんはえらいと、階級や身分よりもむしろ形而上的なものへ心をゆだねている人間への尊敬心に似たものをもっていた。そういう風は、明治後“新士族”である役人に受け継がれたんだと説明します。
この話、そのまま現在の藤むらの現状への説明になりますよね。我々社会の問題でもあるんですけど、“新士族”を生み出す場所であった本郷で、藤むらが代替わりに失敗したというのは、象徴的と言うべきなんでしょうか。


というわけで、幻の逸品となってしまった藤むらの羊羹。そんなこんなで、自分も食べたことがありません。状況的に作るのが難しいといっても、常連のみなんていやらしい売り方は、どうも好きじゃないですし、予約のみ復活したときに機会が無いわけじゃあなかったんですが、ただ食べたいということではなく店で買いたいわけです。まだ看板が下ろされていないことと、店の前がいまだに綺麗に片付けられていることに希望を持ちつつ、キチンと営業が再開されるのを、もう何年も待っています。しかし、この先、その機会が来るのかどうか。
一点気になったのは、つい最近になって、以前あった「内装工事のためお休みさせて頂きます。」という看板が撤去されたこと。
それが藤むら復活のよい前兆であることを祈りつつ、この辺で筆を置くことにします。

なんだか、何か最後は寂しい締めとなりましたが、三店舗紹介してきて、やはり“続ける”ことは難しいんだなぁと思う次第。老舗の紹介はこれからもちょこちょことやってその辺を探っていこうかと思います。今度は明るく、軽くと。

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2011年8月29日・追記
ちょっと前に引越しのように荷物を運び出していて、なんだろうと思ってたんですが、今日見たらガス・水道のご案内がドアに…。
藤むら・2011年8月29日
これって空き家になったってことですよね。こりゃ駄目かもしれませんね。

2014年1月20日・追記
文中に出てくる駿河屋が倒産したようです。

老舗和菓子メーカーの駿河屋(和歌山市)が17日に和歌山地裁に民事再生法の適用を申請し、 保全命令を受けたことが分かった。負債総額は約9億円。営業は続ける。
2003年に当時の社長らが架空の第三者割当増資を行ったとして、04年に逮捕、起訴される事態になり信用が著しく悪化。売上高の低迷で赤字が続き、資金繰りに行き詰まった。

とのことです。

PLACE

ライターの紹介

正規軍に偽装したWEBゲリラ屋。ゲバラよりはカミロ・シエンフェゴスって思うけどヨタヨタのカストロに一番感情移入してしまったり。

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1件のコメント to “湯島・本郷散歩 老舗和菓子屋 藤むら(藤村)羊羹編”

  1. 水谷 園 says:

    すっかり、存在を忘れていました。50年ぶりぐらいで聞く名前です。懐かしい。35年の外国暮らしでもありますし。藤むらと言うのは、三原堂とともに、甘党の祖母のお気に入りの店でした。戦前は、羊羹は、ここと虎屋と決まっていました。私は、戦後生まれなので、本郷にあった家の事は、知りませんが、旧住所では、本郷神明町という表記の所で、住んでいたときの我が家は、お得意さま?だったようです。東京大空襲で焼け出されて以来、そこには、住まず、母と祖母は福島に疎開、父は、勤務先の逓信病院の職員寮に仮住まいだったようです。私は、愛知県で育ちましたが、おりにふれ、祖母や、母が、藤むらのお菓子の話をしていました。老舗が、段々に消えていくのは、寂しいですね。とは言え、私は、あまり知らないのと、両親も数年前に、100歳近くで、亡くなりましたので、それを、惜しんで悲しむ人も、既に、逝ってしまったということですが・・・。全てが、遥か彼方へ・・・〜〜〜。

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