新世代暴力教室:『先生を流産させる会』

9/17より3泊4日の予定を立てて、石川県金沢市で前日の16日より開催されていたカナザワ映画祭に行ってきた。『フィルマゲドンⅡ』と銘打たれた当イベントも五年目を迎えており、毎年、他の劇場では上映されぬであろう、かつソフトもトラッシュされた内容の映画が掛かるということもあって、蓼喰らう蟲の如き映画中毒者どもの一員としては矢も盾もたまらず、初めての長期休暇を取り、参加したのであった。

カナザワ映画祭2011 filmagedonⅡ公式ホームページ https://www.eiganokai.com/event/filmfes2011/

滞在中は多くの映画を鑑賞できる機会を得たが、中でも傑作であったのが、オフィシャルでは初公開とされる自主製作映画作品『先生を流産させる会』だった。

女子中学生グループが妊娠した担任を流産させるために給食に毒物を混入するという事件をきっかけに、この女性教師と生徒達の攻防を描いた内容である。監督は生徒グループには素人の中学生をキャストしているとのことだが、なかでも主犯格の女子生徒は当時まだ小学生で、いずれも初めてとは思えない生々しい凶悪ぶりを歳相応の無邪気さで演じている。
先生を流産させる会
全編62分という尺のなかで画面の隅々まで漂うのは、生臭い不穏である。中学生特有の新陳代謝の跡に残る強い汗臭さとそれを否定しようとする思春期にありがちな潔癖性との矛盾。妊娠期の女性にはごくあたりまえの情緒不安定さを、職業的な矜持から押し隠す女性教師の無表情とそして自ら抑えきれないひとりの女としての強すぎる存在感。作品の舞台は女子校であり、閉塞的な地方(らしい)の一学校ならば、教師対生徒を描く新たな「暴力教室」としては材料が揃ったも同然である。
先生を流産させる会・小林香織
ここで物語を一気に地獄に収束させるキーパーソンがいる。それは先述した当時小学生だった子役演じる主犯格の女子生徒である。彼女の何か大事なものが抜け落ちたような表情は、空恐ろしいばかりの情緒欠陥を観る者に思わせる。IQは高いが感情のない潜在的な反社会的性格の範疇のもの。その彼女が水泳の授業中に初潮を迎える。思索と体の自己矛盾が一気に他者への憎悪に転化する瞬間である。その後のテロルへ向かう様は目が離せない。劇中では母親不在であることしか言及されていないが、デ・パルマの『キャリー』のシシー・スペイセクが同様の体験を迎えた後、母親依存の箱庭に没入していったことを考えると、この女子生徒は常に外部へ外部へと、攻撃性を発揮しなければ自分の存在証明が得られなかったのではないだろうか。
先生を流産させる会・プール
ポランスキーの『袋小路』では性への憧憬とその憎悪の二律背反による自己破壊を描いていた。当作品では生徒グループ対女性教師の図式から、後半は主犯格の女子生徒対女性教師に転じていく。直接対決の中で、教師は生徒に向かって、女である自分を受け入れろと言う。かつて同じような矛盾を体験した元女子生徒としての教師の助言である。しかし、その言は届かない。この生徒の内面はおそらく『袋小路』のカトリーヌ・ドヌーブと近似した破壊衝動によってテロルそのものと化しており、教師に対し彼女は狂犬の如く牙を剥き出しにするのだ。
先生を流産させる会・宮田亜紀
後半の凄まじい生存競争は、観る者の目を離せない。そしてラスト・カットはその観る者によって、救いを感じるのか、不穏さが続くのか判断に分かれると思う。

当作品は自主製作という形をとっているが、多くのシーンやカットはそれを匂わせない質の高いものである。配給が年内だけでなくしばらく先まで決まっていないとの監督の言は、一観客からしても早期の上映を願うものである。

新世代暴力教室:『先生を流産させる会』」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: コツコツと映画を観てます。

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