キム・ギヨン『下女』における空論

ロバート・アルドリッチの『何がジェーンに起こったか?』が元天才子役の姉とそれを介護する妹の老人密室劇で、妄執と強迫が全面に押し出されたサスペンス。この映画をビデオで観た大学生時代、ロリータ趣味の婆さんって怖えなあと思ったりしている中、横浜のハマボウル界隈のラブホ街で白レースのドレス姿のホームレスの老女が立ちんぼをしていたという噂を聞き、わざわざ見に行った記憶がある。結局、何も目撃もできなかった。後年、『横浜のメリーさん』という老街娼のドキュメンタリーが世に出たときは、あ、このひとだったのかな、と思ったことがあったが、実際に噂の本人であったのかはさだかではない。

そういえば梅図かずおの『おろち』に姉妹の争う密室劇がある。画的にも内容にも非常に似通っている強烈なイメージの侵襲はアルドリッチのそれが先なのか、漫画が先なのか皆目見当がつかないのだが、老若の区別を超えた脅威がふたつの作品にはある。

ここでこの二作品の恐ろしさを加味した映画が、まったく無関係の次元で存在していたら、というifを定義するにあたり、実際に1960年の韓国で発生していた、とするとどうだろう。時は李承晩の不正選挙に事を発する馬山事件など、テロが続発する政情不安定な時代、一介の歯科医である男が独立プロで製作した情念をテーマにしたある映画が作られた。

この時点で計り知れないどす黒い噴出が期待できるのではないか。

物語はごく単純である。ある家庭に訪れた若い家政婦が、その平穏を悉く破壊するというストーリー。ピアノ教師である父親が教え子とあやうくなりそうな事態(結局、何も起こらない)を目撃した家政婦が、その直後に色仕掛けで父親を落としたことから始まる色地獄。実はその後の、家政婦の攻撃的な動機は一切不明なのである。

わが国でいうなら松本清張の『家政婦は見た』が、本作では『家政婦と寝た』になるが(市原悦子は個人的には好き)、そんなダジャレはともかく、この家政婦=下女役の女優のハマリ具合ったらない。実際、それほど美人でもないのである。どちらかといえば、主人公のピアノ教師の妻のほうが勤勉で、常時チョゴリに身を包んでいる古風な女性で、目鼻立ちも秀麗、ときおり見せる切ない眉根とチョゴリから透ける下着の線が肉感的ですごくエロい。家政婦は若いとはいえ、痩せぎすの貧しい印象である。しかも悲しいくらい暗い。

さて、この家政婦に我が血を流れよ、といった動機はあるのか?否、それはわからない。作品中ではあまりに無防備に、またいとも簡単に流れるから、である。とはいえ、悪意を伴った純粋無垢な愚かさというのはかくも男を惹きつけるものなのだろうか?

陰翳のあいまいな照明、雨の多用、容赦ないカメラワーク、『家』の箱庭としての設定。明らかなヒッチコック説法。キム・ギヨンという本作品の監督は、ひとつの家の中での三角関係を描いた。が、それは儒教国家であるかの国の男性の立場を、幻惑的に女性上位に摩り替えようという悪意の意図があったのでは?

政情不安定のその時代において、実はその悪意こそが、家政婦のキャラクターの破壊衝動の大きな源だったのではないだろうか。

これは空論でしかない。ただの推察である。

 

 

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