『陽暉楼』 いまさら五社英雄シリーズ

陽暉楼

現在では五社英雄といえば宮尾登美子ものという定評ある。
実際に、当時スキャンダルに塗れ悪評紛々だった五社からの『鬼龍院花子の生涯』の映画化オファーを、宮尾は周囲からの轟々たる反対の声を物ともせず、自身も苦労人故~それだけ修羅場を見た人間ならば自分の作品を映画化するのに向いているだろうとアッサリと許諾を与え、出来た作品の熱とケレンを絶賛するなどして、当初は蜜月とも言ってもいい関係を両者は築いていた。
この映画『陽暉楼』はそういった関係の中で作られたと一般的には思われている「高知三部作」の中の一作となるのだが、実は宮尾が仕上がってきた五社の映画に対して不満を持ち始めるきっかけとなった~両者の作家性の齟齬が明らかになった最初の作品でもあるのだ。
つまり、この齟齬~原作をどのように改変していったかを見ていけば、五社作品がどのような建材を使って立ち上がってくるかが明らかになる~というわけである。というわけで、まず宮尾登美子の原作『陽暉楼』はどのようなものであるのか。
陽暉楼
原作の『陽暉楼』は実在の人物である桃若の生から死までを寄り道なく、一本で野太く書いた長編作品なのだが、読みすすめると宮尾登美子の作品の中ではやや足取りが重く冗長な印象を持ってしまうところがある作品だ。
これには理由があり、宮尾は女衒であった自分の父に売り買いされた女性たちの贖罪・鎮魂の気持ちを、高知では最も著名であった芸者の人生にタップリと込めて書いて行ったからなのだ。父に売買される女性たちの中には宮尾と同世代で顔なじみになったものもおり、桃若と同じく若くして亡くなったものも多かった。宮尾にとっては作品全体の見栄えよりも優先すべきものがあったのである。
が、当然これは映画化なると、劇的な分かりやすいメリハリのようなものがないため、五社は脚本家の高田宏治と共にこれを改変しよう~というのは映画屋としては当然といえば当然である。
陽暉楼
その改変で作品全体の骨相を変えたものは大きく2つあるのだが、一つは浅野温子演じるところの珠子の追加である。
“伝統”に沿ったヒロインのライバル的な存在として、カフェー上がりの意識的な面での“革新”といったところの人物造形は分かりやすく、実際このころの五社映画お約束のキャットファイトも繰り広げるのだが、この対立軸は単純に物語上のものだけではなく、撮影当時に池上季実子と浅野温子が役者として象徴的にもつ時代性といった部分もあったのだ。

母方が梨園に繋がる池上季実子は70年代に14歳でデビューし、梶原一騎原作の『愛と誠』のヒロイン・「君のためなら死ねる」早乙女愛、『冬の華』で主演の高倉健が身元を隠して見守る少女・洋子など、やや受け身でありながら芯の強く何か陰があるという70年代に求められたヒロイン像といったものを象徴しているようなイメージのある役者だった。そういったものを背景に、桃若がガッチリとハマって日本アカデミー賞を取ったのもむべなるかな。
陽暉楼
対抗する浅野温子はデビューは同じ70年代なのだが、ブレイクをしたのは80年代には入ってから。なんと言っても映画『スローなブギにしてくれ』ということになるだろう。この映画、時代背景を無視して今視聴すると、ヒロインが様々な事象に対してテフロンを誇るのに対して、男たちがよくわからないままドンドン自爆していく謎ストーリーが展開して行き、なんこっちゃかサッパリ分からないのだが、実は80年代初頭の世相が反映されてこうなっている。
70年代の学生運動を含むカルチャームーブメントの時代が去り、バブルに向けての消費社会が到来すると、特に70年代にどっぷりと浸かっていた男性クリエイター達によって、そういった時代に変化とそれに追従していく自分への戸惑いというものを、母性を拒絶しつつも男を抱きしめる女性に仮託するという作品がいくつか産まれることになったのだ(この世代のクリエイターは今もこのドグマから抜け出せないで居るものが多い)。時代を切り開いて行くはずだった自らの男性性への不審を背負わせる依代。その依代群の中で最も輝いていたのが浅野温子なのだ。

この対立軸は映画の売りとしては大変大きく、対決写真集なんてものまで出されたりしているのだが、これが売りになっているという時点で、宮尾が込めたものから大きくズレこんでしまっているというのが分かるだろう。しかし、ここはあくまでも映画上、そして作劇上の改変という部分が大きい。
陽暉楼
五社自身が丸出しになっているのは、職業が魚屋から女衒となり、ほとんど主役と言ってもよいくらいにストーリーに大きく絡むようになった桃若の父・太田勝造のキャラクター改変である。物語の手中に収めるための感情を乗せる分身。それが“父”であったというのが大きいのである。フォーカスが宮尾と全く違うのだ。
役者として油の乗り切った頃の緒形拳が、彫り筋も鮮やかに演ずる勝造は、一匹狼として女衒という世間的に卑しまれる職業を営みつつも、商品であるはずの女性達と、その中に頭を並べることになった娘・房子(桃若)の情念に伴走し、最終的にはそれに殉ずる形で特攻を行い玉砕ける。そう、これこそが五社の父性なのだ。
陽暉楼
五社は『陽暉楼』撮影に入る前、トラブルから古巣であったフジテレビとの関係が完全に悪化し、勝造よろしくの河原乞食として独歩していくことを決め、背中に刺青を入れ始めている。そして父として紅蓮の意気地で染められた襷を渡そうとした相手は娘であったのである。それは映画のパンフレットの寄稿者に娘・五社巴を指名したことでも明らかである。再起不能とも思われる事故に遭った自分に対して、回復が無理ならば心中することも覚悟するような父・五社英雄への作品評のタイトルはズバリ「映画に泣いたのか、父に泣いたのか」。

父親とは、いつも孤独なものだと思います。娘を愛する方法も、時として、エゴを押し通すことしか知りません。
わかろうとしても、わかりあえないこそ、父と娘の関係は、しょせん、血縁に細い針を刺すよな、やりきれない堂々巡りの作業でしかないのでしょうか。
五社英雄が描く、情念の世界をときほぐすことこそ、私が25年間、父を理解しえなかった、濃い暗部に、光をあてることになるのかもしれません。
私が、『陽暉楼』という作品に、とめどなく流した涙は、一体何なのか?
それは、映画に泣いたのか、父に泣いたのか、その熱い、熱い涙の味は、今の私には、まだ、分からない。

おそらくフェミニズム的なものはビタ一文理解していなかったであろう五社英雄の映画が何故一部の女性達に強く支持されているのか、というのはここであることは間違いない。独りよがりで自分勝手で傍迷惑だが、娘の情念の為ならば身を投げ出すことも躊躇わない。それは滅びていった不器用な父親~漢達の詩である。この燃焼効率等は全く考えていない無駄な熱さがある種のノスタルジーとして響くのだ。この後期五社映画の特徴が私情により顕著に出た『陽暉楼』は、いわゆる五社の宮尾「高知三部作」の中でも、最も重要な作品であると言えるだろう。

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