『極道の妻たち』 いまさら五社英雄シリーズ

極道の妻たち

さて、地味に続けてきたこのシリーズだが、今回を持って打ち止めとしたいと思う。というのも、五社英雄作品にイマイチ陽が当たっていない状況で「いまさら」と付けて始めた頃と違い、今では各方面の尽力により(ネット配信等で好きな時に見ることが出来るようなったというのも大きいだろう)、普通に語られるようになったからである。大変結構なことではあるのだが、もうちょっと見てくれよと始めた当初の目的が果たされてしまったのと同時に、どちらかといえば片隅に打ち捨てられているモノや事象を紹介したいという自分の性(サガ)とズレ込んでしまったっつーわけですね。コレばっかりはどうしようもない。
とはいえ、誠に慶賀すべき状況になったわけで、ますますのご発展をお祈り申し上げ、ということで最後にチョイスしたのは『極道の妻(おんな)たち』である。

この映画、大ヒットしてその後のシリーズ化の礎となった作品なのだが、ほぼ完全な東映コテコテのプログラムピクチャーで(プロデューサーの日下部五朗自身がプロデューサーの映画と言っている)、“五社英雄”の~といった辺りでの色がカナリ薄く、どちらかと言えば岩下志麻の映画といった感じで記憶している人が多いのではないだろうか。そして、原作の家田荘子からしてバブルに突入していく消費社会の中での女性性の行方といったものを追い求めた人で、そういった時代性が強く反映された形で当時のヤクザ社会の状況を描くこの映画を、果たして全く環境が違う現在に語ることが出来るのか、というのもあり、実はコッソリと避けてきたのだ。
が、ちょっと前に声を当てていたピエール瀧がコカインで逮捕されて、差し替えられてしまうんじゃないかと、慌てて『アナと雪の女王』を見ていた時に(お好きな方、こんな理由から見て申し訳ない)、なんとなくデジャブ感があって気づいたのである。コレ姉妹という設定を筆頭に『極道の妻(おんな)たち』と物語の構造がほとんど一緒じゃん!、と。
そうなのだ、この映画は“極道もの”として捉えてしまうと、現在からでは本質的なトコロにたどり着けないような気がするのだが、“お姫様もの”として捉えるのが本来は正しく、それならば現在でも語ることが出来るのではないか。と、ややインパール作戦風味での出発っぽいような気もするが、ありがちな日本人的判断として、一旦そこには眼を瞑り“お姫様もの”としてのこの映画の魅力を見ていくことにしよう。
岩下志麻
この映画の最大の魅力、それは先程ふれたようになんといっても岩下志麻ということになるだろう。この“女王”に相応しい超然とした岩下の演技をこのシリーズで知ったという人も多いだろうが、これはその評判となったケレンタップリの演技以上に岩下の役者としての出自が関係している。
都内の比較的豊かな家庭で育ち、医学部を受験するための勉強で疲れて、気分転換にドラマに出演してから~という根っからの役者志望ではなかったため、大概の役者が自分を掴むまでに抱えてしまう微妙な媚のようなものを、身につける必然性が無かったというわけなのだ。基本、新人は気分的・序列的にも立っていなければならない撮影現場で、ソファーを見つけると取り敢えず座ってしまう岩下のことを、映画スタッフ達は“駆けずのおしま”と渾名したそうである。
この当時の役者としては珍しい資質は、小津安二郎に見抜かれて、小津最後の作品『秋刀魚の味』で抜擢されることとなる。それまでの小津が描く“娘”は原節子が演じた辺りがそうだがモロ理想形といったものが多かった。しかし、岩下の“娘”は、嫌味を言ったり、不機嫌だったり、と自我を顕(あらわ)にするむき出しさがあった。小津が新しい人物を想像したと評判になり、作家としてのピークがもう一度来るのではないか(次の作品でも岩下の起用が決まっていた)、とも評価されることになったのは、岩下という特殊素材があってこと。その後の『鬼畜』の母役や『疑惑』でのVS桃井かおりのインパクトは映画ファンにはご存知の~という。こういった特殊性がこの映画では、“女王”的なるものとしてガッチリとハマったというわけなのだ。
そして、この映画でその資質を更に増幅させることになった事情として、五社英雄が岩下志麻の惚れていたということも、カレーに入れるコーヒーのような隠し味のような事実としてあったようだ。なんであんなヤツ(篠田正浩)と結婚したんだと、ぶっちゃけるような信頼関係からの演出上の思い入れが、必要以上に岩下の“姉御”キャラを濃いものにした要因というのはオモシロイ。
かたせ梨乃
この姉に対する妹というのは、非常に難しい人選かと思うが、プロデューサーの日下部が選んだのは、グラビアアイドル的なものの走りとして当時“肉体派”なんて風に書かれたりしていたCMモデル出身のかたせ梨乃だった。
プロデューサー的には商売上のそういった方面での濡れ場要員としての起用だったようだが、かたせはそういった取り扱いに不満を持っていたようで、前年の『二代目はクリスチャン』ではシャブ中のような汚れ役を演じたりして、役者業を続けるべきかイロイロと探っている時期の大抜擢だったのである。だからこそ、腹をくくった体当たり的な演技となり、岩下と五社映画お馴染みのキャットファイトを演じても、要のバランスを損じない、正に“姉”と“妹”になったのというわけなのだ。
とはいえ、撮影当初はこの抜擢に緊張しまくりで、ミスも連発。元々岩下のようなほっそりキリリとした姿の女性が好みだった五社は、それとは真逆の豊満なかたせの起用にそれ見たことかと不満タラタラだったようだが、「極妻とは妻であり女であり母である」といったテーゼを掲げて撮っていた五社的に、世良公則がかたせの乳を吸いつつ死んでいくシーンは会心のものであったらしく、結局その後もかたせの起用は続くことになるのである。実際、あのシーンはかたせでなければ難しかったろう。我々が今知っている“かたせ梨乃”はここから出発しているのである。

そして、この二人の相克を受け止める形となる“王子様”役は世良公則。
当時、新人・あるいは畑違いの人間を刑事ドラマで育てて、役者として旅立たせるという今となってはよくわからないルートがあったのだが、世良もソレの出身。しかし、世良が他のルート出身者と一味違ったのは結構なガンマニアだったこと。単に興行を考えての人気ロックバンドのボーカル起用といったわけではなく、この映画の“ヒットマン”役に相応しい人選だったのである。役者とは違う疾走感と焦燥感は五社の語る「男はみんな、口惜しがって生きている」を見事に体現している。上記の五社会心のシーンはかたせ・世良のアンサンブルがあってのことなのだ。
世良の持つ当時は他になかったこの資質は、この映画の後に同出演者だった竹内力ともにクライムハンターシリーズで花開き、Vシネの立役者となるのだが、“ガンアクション俳優”というものが日本人的にイマイチ一般にアピールしないというのもあり、武田鉄矢の“カンフー俳優”同様に、賞味期間が非常に短かったというのが悔やまれてならない。流石に武田鉄矢の方は主に体力方面で、ジャッキーチェン映画の赤鼻師匠(袁小田)のような方向性でも復帰は難しいと思われるが、世良の方はジジイになってもガンアクションをしている人間は向こうにいくらでも居るので、頑張っていただきたいトコロである(追っかけては居ないので、最近にあるようだったら申し訳ない)。

他この映画は脇もナカナカ味わいがある。まずは、姉妹二人の父親役の大坂志郎。実は岩下志麻とは同じ松竹所属であり、大坂も小津作品『東京物語』に息子役として出演している。この辺りは古い映画ファンがニヤリとするトコロだ。当時、お茶の間では『大岡越前』を筆頭に、安定感をみせる父親のような役のイメージが強かったため、この映画のデカイ借金を抱えたショボさをみせる父親というは、ギャップを狙っての起用である。
そして、言わずもがなの成田三樹夫。こういった小心でコスい役をやらせたら、本当に右に出るものは居ないなという、殺されてスッキリボタンを押したくなるキャラクター造形は見事と言うしか無い。
そのコスさの下で苦しむ小松政夫も好演と言っていいだろう。若干、『仁義なき戦い』シリーズの打越を思わせるものがある。こちらもタモリと並んでマニアックなネタも出来るが、どちらかと言えばお茶の間でも親しまれるネタを基本に当時人気があったので、大坂同様にギャップを狙っての起用だろう。

さて、本作品はどうも当時から強い女性(極妻)の活躍する映画が、これまでヤクザ映画を見なかった一般の主婦やOLに受けて、シリーズ化を決めるような大ヒットになったという解釈が多いようだ。しかし、それまでのヒットを飛ばしたヤクザ映画というのは、高倉健が演じたような様式化されたものにせよ、『仁義なき戦い』シリーズの集団抗争劇にせよ、過去を舞台にしたものが多かった。Vシネのようなモノズキな人達(ワタシ)が見るものはともかく、過去を振り返ってではない現代ヤクザもので一般に大ヒットというのはカナリ異端な作品なのだ。そう考えるとやはり『アナと雪の女王』よろしくの、一種のファンタジーもの、“お姫様もの”として見られたからだ~というのは正しいような気がしてくる。
撮影前に映画会社がリサーチしたところによると、“姉御”らしい“姉御”というのは当時の時点でほぼ絶滅していたそうだ(岩下から実際の“姉御”を見て研究したいという要望があって行ったらしい)。現代からすると、バブル突入期のヤクザの生活というのは、高年齢化が激しいという現代のヤクザからしてもファンタジーに違いない。よくファンシーとヤンキーは表裏一体と言うが、車のダッシュボードにディズニーのぬいぐるみを並べる人達の嗜好というのは当時も現在も変わらない。『アナと雪の女王』が今ウケるのだったら、この映画が今ウケても全くおかしくないのだ。実際、この映画の後、岩下の“姉御”が完全にキャラクター商売として成立したからこそ(岩下がこのキャラでCMをやっているのを見たことがある人も居るだろう)、シリーズ化されたのである。

そういった意味ではこの映画はプロデューサーが前に出ることにより、本来日本映画が獲得し続けなればいけない客層に、ディズニー作品よろしく、その魅力が見事に届いた稀有な映画と言えるだろう。そして、五社はその骨相を理解して、己の色を付けつつも職業監督として自らを規定して仕事をやりきったのである。五社のキャリアの中でも、その辺りのバランスの妙が味わえるという点でも、『極道の妻(おんな)たち』はむしろ今見ていただきたい映画である。

・いまさら五社英雄シリーズ
 『鬼龍院花子の生涯』
 『吉原炎上』
 『肉体の門』
 『陽暉楼』
 『人斬り』

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